障害って何だ?
- カテゴリ:日記
- 2009/06/15 23:17:04
今朝、出がけにつけていたテレビから綺麗なピアノの音が流れてきました。あの、盲目のピアニスト、辻井伸行さんでした。
彼は指揮者と出だしを合わせるときに、耳で息づかいを聞いているのだそうです。
さて、ちょうど先週の「爆笑問題のニッポンの教養」が、東大で「障害学」を研究している全盲ろうの先生との対談でした。目と耳、両方に障害を持ち、独自の「指点字」と呼ばれる通訳方法で爆笑問題の二人と会話をしていました。
その対談の中でも出てきた話題なのですが、「本当に障害者は健常者に劣るのか?」という話があります。僕は障害を持っているからといって、人に優劣など無いと思います。
辻井伸行さんしかり、スティーブン・ホーキング博士しかりです。人間の脳は五感の失われた部分を、別の仕事へと割り当てます。そう、障害を負ったからといって脳の機能が失われるわけではありません。
日曜に観終わった「RD潜脳調査室」でも盲目の少女が手術で見えるようになるも、その子は「何かを失った気がする」と言います。
まあ、だからといって、治療法の開発とかが必要じゃないとかそういうわけではありませんが、「障害がある」という事をプラスに変えられる社会が必要なんじゃないかと思うわけです。
「健全な精神は健全な肉体に宿る」という言葉がありますが、あれは誤訳で「健全な精神は健全な肉体に宿れ『かし』」です。意味は「健全な精神は健全な肉体に宿らないものだなぁ・・・」という皮肉です。ローマ時代、貴族の腐敗ぶりを哲学者が嘆いた言葉です。
最近の日本を見てると良くわかりますよね、それが (-∀- )
「敬意を払う」という言葉は、とてもいい言葉ですね。そこには、障碍があるとか差別に
つながる物がないように思います。
僕は常に「年齢」というものを頭から外しています。だから、僕より若くても敬意を払う
べき人には「○○さん」と呼ばせてもらっています。
「年齢が上だから、自分より能力が下だ」なんてのは、幻想もいいところです。敬意を払う
べきはその人の才能や能力、そして結果や努力なのだと考えています。
どんな場合であっても、そうありたいものです。
目が悪いも拗らせれば弱視という障碍として認定されるわけで、思ってる程の差っていうのは無いのだと思います。
あと、優劣以外に「かわいそう」ってのもおかしいなぁと思うわけですよ。
家で、料理作るから洗濯してくれとか、「出来ることとトレードオフ」で頼むくらいの関係で良いんじゃないかと。
いや、本当に困っていたら普通に手を貸せば良いんですけど、積極的に何かするようなのは違うと思うんですよね。
後天的に障碍を抱えられた方はとても大変だと思いますし、どうか解らないのですが、少なくとも先天的な障碍を抱えていらっしゃる方は「それが当たり前」なので、憐憫や同情を掛けるのは逆に失礼なのではないかとも思います。
「『盲目の』ピアニスト」なんて肩書きは裏を返せば「目が見えない割には凄いよね」って言ってるようでなんか失礼な気がするんですよね。差し引かなければ大したことがないのならそれは評価に値しないわけで、そんなことをしなくても素晴らしい成果を出せる人なのに。
過保護気味になってしまうのは「よく知らないから」なのだとは思いますけれど、それって何かが出来ないだけでほかのことまで否定しているようで凄く失礼な気がするのですよね。
「対等」に扱い、「かわいそうだから」じゃなくて「困っているときに、出来ることがあったら」手を貸せば良いんじゃないかと思いますし、貸して貰えば良いんじゃないかと思うのですが。
で、「大変なのに凄いねぇ」じゃなくて単純に「仕事そのものが凄いな!」で良いんだと思うのですけれど。
もちろん、背景としてハンディを乗り越える人は凄いですし、尊敬に値しますが、それは仕事自体の評価とは別だとおもうので、別の形で敬意を払えばいいのではないかと思います。
「評価の基準」はどこから生まれたか?、という話題も「爆笑問題のニッポンの教養」では
扱われていました。一番の大きな節目は「大量生産・消費社会の到来」ではなかったか、
というものでした。工場では流れ作業でモノを大量に作るために、いわゆる「健常者」と
いうのものが前面に出てきたと、東大の障碍学の先生はおっしゃっていました。
本来、人の評価の基準は「能力」であり、それは単純に仕事が出来ると言う事を離れ、技術
や才能、そして平均的に色々な事が出来る事もまた「能力」と言えるかと思います。
問題なのは障碍のある人を「特別視する」または「隔離する」という事が、この社会で行われ
ている事なのでしょうね。おっしゃるとおりと思います。
ただ、健常者とされている人に欠陥が無いわけでなく、「概ね平均的な機能が仕様通りに作動する」程度のものです。
世の健常者が思ってるほど実はまともには実装されてはいないですし、良くも悪くも平均でしかない。
取り立てて劣っている部分がない反面飛び抜けて優れたところもないとも言えます。
世間はその平均値を元に作られているので、障碍は「不便」です。そういう意味では「ハンディが無いということはない」のは事実です。
「大変である」という「ハンディ」を優劣に当てはめて考えるからゆがみが出るのだと思います。
当然機能不全の部分が有れば、出来ないこともあります。じゃ、健常者が何でも出来るのかと言えばそれは正しくないです。視力が悪い人もいれば、英語が苦手な人も算数が苦手な人も暗記が苦手な人も音痴な人もいる。
平均的であることと、脳の特性により、学習、反復によって機能が動作するのなら、「マシ」になれるという面は有りますが、それは才能がある人を除けば飛び抜けたものにはならないことでもあります。
人間に限らず、物事にも道具にも特性があり、適性があります。程度の差こそあれ、健常者にだって出来ないことはたくさんあるのですから、「自分が出来ることをより磨き、還元する」のが社会としては正しいのだと思います。
出来ないことを出来ないからしないよーって言うことには何の価値もありません。
「障碍があるということに注目すること」は無意味だと思うのですよ。
むしろ「その人が出来ること。優れていること」が「余計な掛け値無しに評価されること」が大事だと思うのです。
出来ないことをプラスにではなく、出来ること、優れた才があることを更に大きなプラスに変えることが社会には大事なのだと思います。
なぜなら、適正が無い事は意味が無く、適正が有ることは、ほかの人間がその役割を担うよりも効率的で且つ、高度に処理されるからです。
件のピアニストには物を見る才能は無かったが「見えないこと」ではなく、「優れたピアニストとしての才能があった」事が大事で、その才能がきちんと開花したことが大切なのだと思うのですが。
「見えないこと」が重要なら視覚に問題のある人はみんな名演奏家になれます。
たぶん間違って広まった最大の理由は、過去の日本の軍国主義なんだと思います。
国民を操るには都合がいいですからね。まあ、不勉強な体育教師もたまに言う人が
いますが (-∀- )
>>ロリーさん
わざわざ窓を開けてもらってまで聞きたいピアノ、すばらしいですねぇ。周りの
人をこんなにも感動させられる辻井さんの才能は、辻井さんだけでなく支えて
くれた周りの人たちの力でもあり、それを力として辻井さん自身の力を合わせ、
才能は開花したのですから、本当にすばらしいです。
>>ソラねこさん
僕は最近思うのですが、偏った評価がこの日本では横行していると思うのです。
何故偏ってしまうのか、それは「自分を知らないから」だと思います。自分を
知らずに自信を持っている人ほど、人の評価がゆがんでいるように思います。
そういう人ほど、人が努力したりする事を「きれい事」と片付けて、自分の
悪い面を見ないのでしょうね。
>>エリカさん
コンクールでは他の出場者がプレッシャーやストレスで脱落していくにもかか
わらず、辻井さんは楽しんで弾いていたそうです。彼はプロです、それもプロ
中のプロです。
正直、僕も努力家ではありません。どうしても、楽な方へと流されがちです。
そういう意味でも、努力しなければならない境遇にあるという事は、辛いですが
素敵な人になれるのでしょうね。
厳しい事を言っていらっしゃいましたが、
彼の奏でる調べには・・聴く者の心を温かくしてくれる
気がします。障害は関係なくですよ。
彼はすでにプロの演奏家だと思います。
彼の明るさがいいですね。
ご両親の育て方が素晴らしいのだと思いました。
エリカの身近に耳の不自由な人がいますが、
見た目は全く健常者なので
随分 辛い目に遭ってきました。
その人はその辛さにも耐えて
とても素敵な人になってますよ。
健常者である私はその人よりも
劣っていると思います。
努力が違うのです。
優劣の問題ではないのですが、
努力の問題です。
人間の価値とか優劣なんて、無責任に下すものではないんですよね。
きれい事かもしれないですが、自分のなかの足りない部分や至らない部分は、努力することである程度いい方向に変えていくことはできると思うんです。
でも世の中にはそれすらしようとしない人がいるのも現実なんですよね。
由来を聞けばなるほど~と納得です。
辻井さんの件も「盲目の」ということをやたらとマスコミが強調するのもなんだかな~と思います。
そういえば、辻井さんのアメリカでのホストファミリー宅の話、ききました?
ピアノの音がすると普通、ご近所は窓を閉めろと文句を言うのに、
辻井さんの時は窓を開けろといってきたとか、
辻井さんがピアノを弾きだすと、ホスト宅の飼犬がグランドピアノの下に来て寝そべっていたんだそうです。
ホストの方が「彼が帰ってしまうので、犬のケアが大変だわ」と言っていましたww
乙武さんのようにとても立派な方も居るのに、健常者なのにおかしな人って居ますよね。
あの意味ですが、「健全な精神は健全な肉体に宿らないものだなぁ・・・」、だったのですね。
ローマ時代、貴族の腐敗ぶりを哲学者が嘆いた言葉との事ですが、
完全に間違って伝わっていますね、今の日本も実に嘆かわしいです・・・(--;)