おもいついた事。
- カテゴリ:日記
- 2012/12/03 20:27:22
「火の鳥 鳳凰編」
手塚治虫のライフワークの一遍ですが、
残虐非道な盗賊だった我王が高僧の弟子となり、
高僧の、奈良の大仏殿建立のための資金集めのための
全国行脚の途中、盗賊という前歴も手伝って、あらぬ疑いをうけ、
牢屋に閉じ込められます。
高僧はそんな我王を捨てて、一人旅立ってしまいます。
やがて四季を経るような長い時間の果てに、我王の疑いは晴れ、
拘束されていた建物の主から、高僧の行方を知ることになります。
高僧は北陸のお寺で、生きながら即身仏になっている、とのこと。
我王は急いで、その北陸の寺に向かいます。
まだ息がある高僧に会うことが出来、またそこで、なぜ自分を見捨てて旅をつづけたかを、なぜ即身仏の道を選んだかを高僧は語ります。
やがて、深い雪に閉ざされた冬が過ぎ、春になり。
我王は即身仏となった高僧の前でずっと物思いにふけります。
その傍らには蜘蛛の巣にかかった蝶が。
何故、人は死ぬのか?何のために生きるのか?
人は死ぬと再び人間には生まれるとは限らず、虫や動物に生まれ変わるという。
我王は最初にその話を聞いたときは、いやだ、死にたくない、虫になんか生まれ変わりたくない、と夢にもうなされるほど、恐れました。
しかし、今、目の前にある高僧と、蝶との「死」になんら違いはないのではないのだろうか?
その時、我王には命の連鎖が見えてきます。人、家畜、虫、植物・・・それらは火の鳥の輝きの一つ一つとなり、大きな宇宙へと広がっていきます。
我王は狂ったように笑いだしました。「わかった、わかった・・僧正さま、わかりました」
・・・・・・・・・・・・・・・・
長々とすみません。今まで、笑い狂う程の我王の悟りとはなんなのか、分からなかったのです。
でも、今、少し理解したかもです。
「生きとし生けるものの命は皆同じ」
だから、次に何に生まれ変わろうが、命には変わりがない、とい事を悟ったのではないか・・・と、忘れないうちにここに書いておこうと思っただけです。
我王はその後、放浪の旅をつづけながら我流で得た技で、木や石に仏の姿を彫り続けるのでした・・・・。