労働裁判 - 半年の戦い その1
- カテゴリ:人生
- 2008/12/25 23:57:35
※注意:これは原告である僕からの視点での事実認識です。被告側の視点は考慮されていません。その事をふまえた上でお読みください。
僕は今年前半、ある小さなIT企業に勤めていました。社長以下、非常に年齢が若い会社です。ごく普通に仕事をしていましたし、自分が半年もの間、戦い続ける事になるなど思ってもみませんでした。
事件が起こったのは5月初旬、僕は懲戒解雇されました。書面に書かれていた理由は「社員Sとコミュニケーションがうまくとれなかった事」でした。それを読んだとき目が点になりました。
その数週間前、社員Sはある仕事を、僕と一緒に働いていた相棒に引継ぐという事で、僕らは説明を受けていました。疑問点があったので僕は質問しました。でも社員Sはそれに答えることができず、あちこち別の社員に聞きに回っていました。
結果として引継ぎに時間がかかってしまい、双方話し合いの上で引継ぎ方法を確認してその後、問題が起きないようにと話は収束していました。
社長はその事を持ち出し、僕に「懲戒解雇する」と通告しました。無論、終わった問題を蒸し返して辞めさせられるなど、納得がいくわけがなく1時間以上にわたって僕は抵抗しました。しかし、社長は聞く耳を持とうともしませんでした。
その会社は僕の知り合いが取締役を務めていて、僕にとっては「人質」を取られているに等しい状況でした。「これ以上、抵抗するのは彼に迷惑をかける」と思い僕は諦め、懲戒解雇の書面にサインしました。
それから数日後、全く同じ理由で相棒が懲戒解雇されました。僕は何が正しいのか分からなくなりました。友人たちは皆、「そんな理由で懲戒解雇などおかしい」と口をそろえ言いました。
懲戒解雇とは何であるか、Wikipedia の内容は個人によって編纂されているものですから、正確かどうか分かりませんが「労働者にとっての極刑」と表現されています。
出典:Wikipedia - 懲戒解雇
http://ja.wikipedia.org/wiki/懲戒解雇
それでも「人質」を取られている手前、騒ぎ立てするのは良くない、そう思い僕は黙っていました。懲戒解雇でありながら、1ヶ月は新しい人員に自分が受け持っていた仕事を引継ぐ為に、ストレスで体調を崩しながらも残っていました。
会社にいるのが残り少なくなってきた頃、会議スペースに社長以下、社員が集まり週例ミーティングを行っていた時に、社長が発した言葉が聞こえてきました。
「○○さん(相棒の名前)は会社の悪口を言っていたらしい、確証はないんだけどね、確証は。」
僕は相棒から聞かされていました。相棒の懲戒解雇の理由に社長は口頭で「君は会社の悪口を言った」と言われたと。事実と異なります。「確証がない」のに懲戒解雇の理由に付け加えられていた事。おかしな話です。それに社員にするような話ではありません。相棒を陥れた事、これには僕は憤りを感じました。
それよりも憤りを感じたのは、「人質」だと思っていた知り合いの取締役が、社長の非常に不適当な発言を咎める事もせず黙っていた事でした。僕はこの時、自分と相棒に着せられた汚名を返上すべく、戦う事を決意しました。
僕はまず、労働基準監督署に行き、また友人の勧めでユニオン(労働組合)の窓口に電話し相談しました。また、弁護士相談にも行きました。そして、相棒に「無理強いはしない、もし一緒に戦うなら戦おう」と持ちかけ、相棒もそれに応えました。
僕らは労働局の相談窓口に行きました。そこでの出会いが僕らのその後の進路を開いてくれました。相談員の方は元会社経営者の方で、現在はボランティアで相談員をされているとの事でした。その方は僕らの持っていった資料と僕らの証言を聞き、こう言いました。
「君たちは何も悪くない、悪い事などしていない。こんなのは会社じゃない!」
懲戒解雇を行うには、就労規則に細かく規定を書く事、事前に労働者の弁明の場を設ける事など、細かな規定が存在する事を、相談員の方は丁寧に教えてくれました。
そして、僕らは労働局の「あっせん」という制度を相談員の方の勧めで行うことにしました。この制度は、労働関連の識者が労働者と会社側との間に立ち、双方の意見を聞いて裁定を下すというものです。しかし、この制度は「参加は任意」という欠点がありました。案の定、会社側は不参加を表明しあっせんは流れました。