Nicotto Town



自作小説倶楽部7月投稿


「夜空を歩く」


  その人は母の従妹に当たる女性だったそうです。
 
最初にその人を見たのは私が何歳の頃かは覚えていません。毎年、お盆に母の祖父母の家を訪れると、ああ、またいるな。と彼女の姿を目に留めたものです。
 
彼女は蔵の脇の日陰に立っていました。昔の事とはいえ暑い日もありました。だから、そうしていたのは時々のことだと思います。それでも幼い私はその人が毎日、白い浴衣を着て、そこに立っていたような印象があります。
 
歳を母から聞いたことがありますが、彼女の時は止まっているように見え、目には迷子の童女のような寂しさがありました。
 
彼女は蔵の側にある離れに住んでいました。いいえ、住まわされていた。閉じ込められていたという方が正しいかもしれません。田舎の子供たちの大半は私に親切でしたが、ある少年に『お前のキチガイのオバサンの今日の機嫌はどうだ』と言われたことがあります。悲しいというより、やっぱりそうなんだと納得しました。
 
彼女が心を病んでいることは公然の秘密でした。
 
彼女は誰とも話さず、笑うこともなく離れの内と外の庭を行き来する毎日を送っていました。だから、あれが本当にあったことか自信がありません。熱に浮かされた子供の脳が創りだした幻のような気もします。何より、彼女は次の日は元の通りだったからです。
 
でも、少しお話させてください。あれは天の川がとても綺麗な夜でした。

 
お祭りだというのに熱を出して寝ていたんです。母も地域の手伝いのために出掛けねばならず、早く帰るからと言って出て行きました。広い座敷には私だけが取り残されました。
 
目が覚めると物音がしたような気がします。母かと思いましたが声はしません。
 
どろぼう?
  恐る恐る布団からはい出します。熱のだるさは無くなっていました。物音は仏間からします。障子を開けて縁側から仏間のほうを見ると白い影がありました。
  驚くより先に白い影は細い人差し指を己の唇に当て、しぃっと息を吐きました。
  離れにいるはずの彼女でした。
「私が来たことは誰にも内緒よ」
 
近づいてみると彼女は手に線香の束を握っていました。私の見ている前で、かがんで、足元に置いてあった小さなカバンにそれを収めます。そして縁側に腰掛けると草履を履き、庭に立ちました。
「どこ行くの」
  立ち去ろうとする彼女に私は慌てました。彼女がとても頼りない存在だと思ったからです。恐怖心はありませんでした。幸い私は着古したTシャツに短パンという格好でした。庭にあったサンダルを履いて追いかけます
「なあに、あんた。ついてくるの?」
 
彼女は横目で私を見ました。
 
「だって」
 
私は彼女を見て、その立ち振る舞いの俊敏さに驚きました。迷いなく庭を抜け。玄関先に置いてあった水まき用の手桶を空いていた右手でつかみ、通りに出ました。一度手桶を置くと右の指先で襟を少し引っ張って整えます。どこにも狂人らしい不調和はありません。
 
並んで歩くと白い浴衣にかすかな線で模様が入っていることに気が付きました。
「おばちゃん。この浴衣の模様は何?」
「お姉さん」
「おねえさん」
「朝顔よ」
「どこ行くの?」
「お墓。ついてくるなら荷物を持って」
  
渡された手桶の中でかさりと音がしました。中を覗くと細い白菊の束が入っていました。まえもって彼女が用意したものに違いありません。
  彼女が歩く道は私が母やその他の親類と歩く道ではありませんでした。脇道に入り、誰もいない暗い道を用水路を流れる水の音を聞きながら歩きました。表の通りしか歩いたことのなかった私はこの田舎にこんなに豊かな水路が流れていたのかと改めて感心しました。水を覗き込むと暗い中にも星の輝きが見えました。まるで空の星々の中を歩いているような気がしました。
 
星々の間を歩き、不意に地に足が着きました。墓地の端に入っていました。
「ここで待っていて。ちゃんと帰って来るからね」
  手桶を私から奪い取り彼女は墓の間に入って行きました。悲しい気持ちがしたのは置き去りにされた寂しさのせいか、彼女から感情が感染したのかわかりません。夜空には星々で出来た流れがありました。祭りの囃子も聞こえず、かすかな虫の声だけがしました。 

  夜が明けて、母は私の虫刺されの痕に薬を塗って首を傾げました。
  昨夜の出来事は誰にも言いませんでした。家に戻り庭で別れるときに彼女から誰にも言うなと念を押されたせいもあります。
  ずいぶん後になって彼女は本当に狂人だったのかと母に聞いたことがあります。母は「恋のために、あそこまでするなんて狂っとる」と悲しそうに言いました。彼女は不幸な失恋ののち、親類が見合いを画策したころに精神の均衡を失いました。見合い相手の顔に湯呑をぶつけ、テーブルをひっくり返して大暴れしたそうです。誰も彼女にかまわなければ大人しいと人々は理解し、離れに住まわせることで彼女の存在を忘れました。

  もう彼女に会うことはありません。
  曽祖父母が相次いで亡くなると彼女は知人を頼って引っ越しました。母も連絡先を知らなかったようです。
  時々、彼女を思い出します。こんな星の美しい夜に、彼女は銀河を渡っていると思うのです。




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2018/08/07 00:10
逆に考えると
故人である恋人はどれだけ幸せなのでしょうね
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2018/08/05 22:45
儚い真夏の夜の出来事

切ないお話でした。
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2018/08/02 09:24
銀河の伶人がもうでたのは亡き恋人のお墓…
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2018/08/01 18:06
なんて切なくも美しい



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