Nicotto Town



自作小説倶楽部11月投稿

『春を待つ殺人』(前編)


「おひさしぶり」
色あせた防寒着に身を包み、軍手を着けて山小屋を出たところで意外な人物が俺を待ち構えていた。冬山の登山には中途半端な時期に人に会うこと自体まれなのだが、その中でも最悪の相手だ。細い脚を包むブランドもののブーツはとても山に適した履物とは言えないが、彼女の影のように佇む男の姿に納得がいく。屈強な騎士よろしく山道でもお姫様をエスコートしたのだろう。
それにしても、わからないのは彼女がどうして俺に会いに来たかという理由だ。相続放棄なら弁護士を立てて滞りなく終わったはずだ。
「どうしてここに?」
「従兄に会いに来るのに理由なんて必要かしら?」
イトコ? 親し気な単語と媚びさえ含んだ口調に絶句する。同じ口がかつて俺の母親の悪口を吐き、先祖に狂人や犯罪者がいたとまでわめき立てたのだ。今更常識的な言葉が発せられても信じられるはずが無い。もちろん根拠不明な悪口を吹き込んだのが彼女の両親だとわかっていたが、それを信じ、他人を踏みつけあざける醜悪な魂には何度も戦慄を覚えた。
亡き祖父によって本家に引き取られた時、多少の差別は覚悟の上だった。ただ、俺はお金に困らず勉強して静かな生活ができればよかった。誰かと争うこと自体不向きな人間だと自覚していた。そんな俺に取って従兄妹となり、同じ学校に通わねばならない彼女の存在は大きな悩みだった。
「会社のことは聞いているでしょう」
「生憎、ここは新聞は一週間に一度、携帯電話でネットは見ない。俺は元より無関係の人間だから、君の父親の会社がどうなろうと興味はない」
「パパは解任されたわ。降川が裏切ったのよ」
彼女は唇を噛んだ。
降川という名前で思い出す人間は一人しかいない。祖父の信頼厚い部下の一人で俺が本家を捨てる時に頼った人間だ。当時から叔父の支配体制に疑問を呈していたから「裏切」という彼女の表現は正しくない。会長の孫というだけで俺にも随分よくしてくれたし、叔父が社長に就任して5年は耐えてくれたわけだから祖父への恩義は十分返したはずだ。
俺の思考に気付くこともなく彼女は真っ赤な唇の両端を無理に引き上げる。
「でも挽回することは可能だわ」
「どうやって」
嫌な予感がした。話を聞くまで相手が帰ってくれないことはわかっていた。早くこの不快な状況を終わらせて薪割りを始めたい。山小屋での生活で貧弱だった身体にも筋力が付き、苦痛は無くなったが前任者の老人に比べれば手際が悪く、冬支度が遅れている。温かく、安全に冬を越すにはやらねばならない仕事がたくさんあるのだ。
「私とあなたが手を組むのよ」
彼女の顔を見て寒気を覚えた。そこには中高生のころから彼女が自身に有益な男に向けた表情があった。外見だけは極上に美しいから引っ掛かる男はいくらでもいた。彼女の背後から俺に敵意を向けて来る男のように。
唐突にひらめいた。彼女に取っておれは自分が受け継ぐ祖父の財産を盗む有害な人間から利用可能で有益な人間に変わったのだ。たとえば、俺が会社に就職したいと言えば降川さんはよろこんで会社に重要なポストを用意してくれるだろう。俺と彼女が結婚でもすれば、祖父の部下だった人たちは祝ってくれし、経営の実権を取り戻すことも不可能ではないかもしれない。
冗談じゃない。
気分が悪くなってくる。俺は彼女のことがこの世で一番嫌いだ。彼女のせいで人間関係に大きなトラウマを負って、やっと回復したところなのに。金にも権力にも興味はなく少し働いて、好きな時に読書できれば幸せなのだ。
「何ですって、」
目の前の彼女の顔が醜く歪み、眼に危険な光が宿る。しまった。拒絶の言葉を思わず口から漏らしていたらしい。しかし引き返すことは出来ない。俺の意思は拒否一択だ。そもそも、俺に少しいい顔をすれば手玉に取れると考えている彼女が異常じゃないか。
彼女が俺を指さして背後の男に何か命じる。
畜生、まただ。治ったと思っていたのに。俺の耳は彼女の声を拒絶する。さっきまでさわやかだった山の空気も肺に入ってこない。
ぼんやりと、高校生の頃に彼女がボクシング部のボーイフレンドに命じて気に入らない相手を襲わせたという噂を思いだす。真偽はともかく、そういうことをしても彼女の良心が悪意の沼から蘇ることは無いと知っていた。
男が肉食獣のような目で俺を睨み突進してくる。ダウンジャケット越しにもその身体が鍛え上げられていることはわかった。
恐怖に駆られ、俺は手に握ったものを男に突きだした。




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