Nicotto Town


人に優しく。


もう何ともない


お雪は黒目がちの目でじっと此方を見詰めながら、「あなた。ほんとに能く肖ているわ。あの晩、あたし後姿を見た時、はっと思ったくらい……。」

「そうか。他人のそら肖って、よくある奴さ。」

わたくしはまア好かったと云う心持を一生懸命に押隠した。

そして、「誰に。死んだ檀那に似ているのか。」

「いいえ。芸者になったばかりの時分……。一緒になれなかったら死のうと思ったの。」

「逆上せきると、誰しも一時はそんな気を起す……。」

「あなたも。あなたなんぞ、そんな気にゃアならないでしょう。」

「冷静かね。然し人は見掛によらないもんだからね。そう見くびったもんでもないよ。」

お雪は片靨を寄せて笑顔をつくったばかりで、何とも言わなかった。

少し下唇の出た口尻の右側に、おのずと深く穿たれる片えくぼは、いつもお雪の顔立を娘のようにあどけなくするのであるが、其夜にかぎって、いかにも無理に寄せた靨のように、言い知れず淋しく見えた。

わたくしは其場をまぎらす為に、「また歯がいたくなったのか。」

「いいえ。さっき注射したから、もう何ともない。」





ー 『濹東綺譚』 永井荷風 ー




 




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