自作小説倶楽部4月投稿
- カテゴリ:自作小説
- 2025/04/30 23:32:07
『彼の微笑み』
「ツネ婆さんが亡くなったなら。明日帰るよ」
「どこに?」
彼の言葉に間抜けにも私はそう応じてしまった。
「故郷に帰る」に決まっている。しかしツネ婆さんが住んでいた田舎が私の故郷かというと、そうではない。「婆さん」と呼んでいるが彼女は私の大伯母あたりの親戚らしい。
私とツネ婆さんの正確な関係は知らない。何せ母が死んで彼女に引き取られた時、私はやっと10歳になったばかりだった。
「君にはつらい思い出が多いかもしれないけど、こういうことは無下にしないほうがいい」
「大丈夫、あまり覚えていないけど貴男に出会えて幸せよ」
彼と出会ったのはツネ婆さんの田舎だ。それから10年も経って私たちは再開して一緒に暮らしている。
彼は丘を越えた場所にある家に母親と妹と暮らしていたような気がする。山で足をくじいた私をおぶって家まで送り届けてくれた。その時から私は彼が好きだった。
しかしツネ婆さんとの思い出はひどく曖昧だ。引き取られて2年で私が学校に通っていないことを知った大人が私をツネ婆さんから引き離した。それから、学校に毎日通うことも、大人たちの言う「日常」に慣れることもひどく難しく、辛かった。
今は養父母や他の大人たちが正しかったのだと思う。何もできない子供のままだったら私は彼と再会しても暮らしていけなかっただろう。
彼に言われるまま、キャリーバッグに着替えや必要なものを詰めていく。
「そういえばツネ婆さんはどうやって生活していたの? 占い?」
「最後は市の施設に入っていたようだね。だから市役所から連絡が来た」
「ああ、そうだったわ」
「小さな祠があったことを覚えている?」
「そういえばツネ婆さんが拝んでいたわね」
「あれはとても重要なものなんだよ。中にあったご神体を持ち帰るんだ」
「でも、あんなものがあるからツネ婆さんはおかしな人扱いされたのじゃない?」
養父母が夜中にこそこそと話していたことを思い出す。狐憑き、インチキ霊媒師。何人もの人間がツネ婆さんの占いにすがり、外れると罵った。
「あれはとても重要なものだったんだよ。山奥で貧しく一生を終える人たちがたくさんいたからね」
「信仰は持ち合わせてないわ。どうしてそんなことを言うの?」
いつもと違う彼に違和感を覚える。
彼ってこんな人だったかしら?
そもそも彼はどんな人間なのだろう?
不意に彼の姿が目の前から消えた。
私は一人暮らしのアパートに居た。
乱れる息を押さえ、深呼吸を繰り返す。目をつぶってかつて私をおぶった温かな背中を思い出す。
「私を拒絶しないで。祠は必ず探すから」
そして目を開けた。
彼は私に向って微笑んでいた。