Nicotto Town



自作小説倶楽部12月投稿

『医師と極悪人』

「子供の頃は私は貴男を尊敬すらしていました」
男は老人に向って話し始める。ここへ来るまで沸き上がった様々な思いを吐き出さずにはいられなかった。薄暗い室内にかすかな腐臭が混じる。壊れた窓から入りこむスラムの臭いだ。男が忌み嫌った。しかし懐かしい臭いだ。
「私を覚えていますか? この病院から3ブロック離れた建物に母と住んでいました。父が死んだ後、生活はますます惨めになり、私はろくに学校に通うこともできずに日雇いの仕事をしていました。それでもまだ希望はありました。軍隊に入れば良い給料をもらって母に楽をさせてあげられると。ジョニーみたいに。
ジョニーは私より3歳年上で私と同じように母を支えていました。住む場所も同じで部屋ではなく衝立やカーテンで仕切られたフロアに住んでいました。だから、ジョニーとそのお母さんが引っ越していった時のことは良く見えてしまいました。新しくて立派な軍服を着たジョニーはすっかり逞しくなっていてジョニーのお母さんに新品のストールを贈ったんです。そして古いストールは私の母に譲られました。私はその時に軍人になろうと決心したんです。
しかし私の夢は叶いませんでした。
配達の仕事の最中に車にはねられたんです。そして例によってこの病院に運び込まれました。そして貴男の宣告によって軍人になるのを断念したのです。この地域の住民はほとんどここを頼らざる負えず感謝もされていたから貴男の言葉は絶対でした。歩くことは出来ても走れなくなった私の人生は大きく方向転換させられました。
身体ではなく頭で稼ぐために必死で勉強しましたよ。
人の役に立つ人間になろうと医療機関に就職しました。最初は給料の安い安い事務職、そのために母には最期まで苦労のかけ通しでした。母が死んで少し給料が良くなってから、仕事の傍ら大学に通うようになりました。医学部です。人の3倍の時間がかかりましたよ。貴男のような貧しい人々を支える医師になりたかったんです。
でも、先日貴男のことで知り合いの警察官から相談を受けました。
貴男は、ひどい藪医者か狂人だと。
貴男は貧しい人々を救う聖人じゃない。幾多の治療に関する嘘、それどころか患者を殺した疑いもかかっている。
私はやっと自分の受けた治療を振り返りました。ギブスで固めた右足の痛み、曲がってしまった関節。まさか今になって悪夢を見るとは思いませんでした。治療の際に貴男は、貴様はわざと私の関節を曲げたんです」
   ◇◇◇
「君は私に復讐するためにやって来たということかね」
そう言うと男の顔が歪み、眼に戸惑いが浮かぶ。私は少し安堵する。彼は私よりはずっと若く、復讐より自分の人生に重みを置き、失望するほど希望を持っているのだ。対して私の方は自分の罪を懺悔する気力も無い。
怪我をしても軍人になるという夢を訴えた少年も、軍人になったジョニーも覚えていた。ジョニーの方は大怪我が原因で半身不随になり、何年か前に死んだ。兵士なんて使い捨ての道具だ。ろくなものじゃない。少年の夢を断ち切るために私は不適切な治療を行った。
そしてこの地域の貧しい人々の命を長らえさせて何になるのか。
その考えは私のエゴだとわかっている。しかし一度やると止まらなかった。
いつか天罰が下る。そう思っていたのにこの歳まで長らえてしまった。この世界が不完全なのは神様が怠けているせいだ。そして極悪人の私は目の前に立つ中年医師の姿に私は満ち足りた気分にすらなっていた。

アバター
2024/01/16 19:14
2視点、法律が悪としていることでも、犯罪者にとっては正義って事件はけっこうありますよね。

イラストを描いておきましたよ。

アバター
2024/01/14 19:24
ときたま医師が、本人・家族との合意なしで、
生命維持用の酸素チューブや投与材を切ってしまうという事件をニュースで聞きます。

反発した中年医師もいずれは老医師と同じことをするように思えてなりません。



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