断りました。
- カテゴリ:音楽
- 2010/05/27 16:28:53
毎年6月にしてもらっているピアノの調律。
今年も調律師さんからおはがきいただいたのでしが
ピアノのある部屋は今は家族にはお見せできても
他の人にはお見せできない物置状態の部屋と化しています。
ダンボールの大山、小山。
ちょっとずつ整理しては肉体的に疲れ
精神的にも疲れ、なかなか進みませぬ。
出てくるものにいちいち涙していてはと思うのだが
2007年の日付で孤児院の子にクリスマスプレゼントを贈るための
シスターとのメールのやり取りのコピーなどが出てきたりすると
そしてその贈った人形が可愛くて、つい自分用にも買ってしまって
最後の入院のお供になり、天国のお供にもなったものだったりすると
たった一枚のコピー用紙を捨てきれずにまた箱に戻す始末。
友達が姉の訃報を聞いて私に会いに来てくれた時
「悲しいよね、この悲しいのってずっと続くんだよ」って
あたしはあまりの言葉にショックだったけど
彼女の実体験からきてる重たい言葉・・・
今本当にそうだなって思う。
いつまでも悲しいよ。
生きてればきっと二年も口を利かなくなるような喧嘩もするだろうにね。
それも生きていればこそだよ。
えっとね、薄情とかじゃそういうんじゃ決してないよ。
人それぞれの悲しみ方があるんだなってつくづく思った。
旦那をこよなく愛して先立たれて一年過ぎても涙が一滴もでない叔母も
いるし、毎日まわりがうんざりするほど泣くあたしの母もいて
どっちが悲しみが強いかなんて比較することじゃないものね。
のらたんの状況が少ししかわからないからだけど、
きちんと決別できたのはのらたん自身の強さがあると思う。
のらたんの悲しみがあたしより少ないとかそんなことは決してないと思う。
のらたんは進むことを選んできちんと踏み出せたんだと思う。
あたしは勝手に姉の幻影を作り出して勝手に十字架背負い込んだつもりになって
姉にとっちゃはなはだ迷惑かもしれないとも思うのだ。
決別する強さは並大抵じゃないってすごくわかりまし。
うじうじといつまでもしてる自分が本当に嫌になるもの。
じたばたしてるのも自分のエゴなのかもなと思ったりね。。。
姉が一呼吸一呼吸今にも止まりそうな時をね、よく思い出しまし。
あたしはあっちに行かせたくなくて呼吸が止まりそうになると
姉の名を呼んでまた1つ呼吸するの繰り返しをしていたとき
母が、可愛そうだからもう名前呼ぶなと言ったの。
そして姉は呼吸を止めたの。
それはどうしても忘れることができいなよ。
親と姉妹と言う差はあると思うけど。。
自分が若かった分自分の環境も変わりやすくて
死んだ人を気にしてる暇がなかったて言うのあるかなぁ
なんたって四十九日済んだら家出して一回忌には出たけど
それ以降は何も出てないのだ(すでに13回忌まで終わってるのだがww
死んだ人をずっと引きずってると死んだ人も楽になれない気がする
親よりも先に死ぬっていくつであっても親不孝になってしまうのに(うちの母親もそうだけど)
他にも気がかりを残させちゃ死んでも死にきれないような。。
私はもう母親が痛みを我慢しなくてもよくなって楽になれてよかったと言う風に考えたわ^^
ううん、どんな人でもコメくれる人はおらのことを一生懸命
思いやってくれる気持ちがあるから、その言葉は嬉しい救われるよ。
そしてこのはみたんの言葉はまさにおらの命題でもあるなあと
思っているんだあ。
死んでしまったお姉ちゃんにしたら勝手に幻影作って
いつまでも悲しみを人のせいにするんじゃないよって
思ってるかもしんないなあって思ったりもするのだ。
だからはみたんが言うように見えないものとどうやって
おいらは共存していくか、それがどんな風向きに
なっていくのか。。。
今はおらはどの向きに帆をはったらいいのか模索中でっし
そして、そのずーんってのは、多分自分も天国ってとこに逝くまで、
ずーっとお供してくもんなんだろうねぇ。
いかに、そのずーんっていう見えない形のものと、接していくかによって、
色々道筋が変わるんだろうと思うよぅーと、まだ失ったことのないオイラが言ってもね、とも思うけども。