Nicotto Town


錆猫香箱日和


思い出の本<旅立ち>

「とうとう行く決心をしたんだね」

頭上から降ってくる声に、僕は思わず足を止めて上を振り仰いだ。

カラスだ。

「まさか本当に旅に出るとは思わなかったな。

自分がいなくなったらおじいさんが独りぼっちになるからってずっと言い続けてたろ」

言いながら、カラスはふわりと僕の目の前に舞い降りてきた。

「お前もアレか、やっぱジイサンより若い女のほうがいいんだな」

カラスの言葉に僕はうつむいた。

心地よい風が、僕の湿った鼻をひんやりなでていく。

ヒゲが風に震える。

僕は、自分がいま登ってきた山の斜面を見下ろした。

僕とおじいさんの家が、遠くにポツンと見える。

耳を澄ませば、おじいさんが僕を

「ディノ!ディノや!」

と呼ぶ声が聞こえてきそうだ。

おじいさんの声を思い出しただけで僕の尻尾はパタパタと動く。

僕はおじいさんが大好きなんだ。

本当だよ。

でもね、でも・・・・・・

僕はどうしても、この山の向こうへ行ってみたいんだ。

この山の向こうに何があるのか、僕はそれが見たくてたまらない。

そして・・・・・・

この山の向こうにもらわれていってしまった彼女に会うんだ!!


「なあ、聞いてるのかよディノ?」

「うん、聞いてるよカラス。僕達犬はとびきり耳がいいってことは知ってるだろ?」

「ああ、知ってるさ。

あんたら犬が耳も鼻もとびきりいいくせに、自分の意思では使おうとしない

ボンヤリ者のお人よしだってこともよーく知ってるさ」

「ボンヤリ者はひどいなあ。僕はこれでもかなり働き者だよ。

ひつじを追うのだって結構上手で、いつもおじいさんに褒められるんだ」

「あーあ、褒められたの思い出しただけで尻尾ブンブン降っちゃって・・・・・・

おまけにそのだらしなく開けた口。舌ひっこめろよ、もう。

あのなあ、悪いこた言わないからさ、ディノ、お前ここから引き返せ。

ジイサンとこに帰ってやれよ。いいか、お前が今から行こうとしている

この山の向こうでは、人間の国と海の国が戦争してるんだ!」

「センソー?何それ?」

パタパタ。

ああ、僕ちょっとお腹がすいたよ。

この首につけた樽に、隣の猫が台所からパンを持ってきていれてくれたんだ。

それとね、おじいさんのベットの枕元にあった今月の『オール読物』

懐かしいおじいさんのニオイ・・・。

カラスもパン食べていいよ。

ねえ、カラス、僕があの山の向こうに憧れているのはね、

僕の彼女がもらわれていったからじゃなくて、

もっとずっとずっと、ずーっと前から気になっていたんだ。

何故って?

それはおじいさんがいつだってこの山の向こうを気にしてるからなんだ。

うん、僕が子犬の頃はおじいさんと2人で土地から土地へと旅をしてたんだけど

いまの家に住むようになってからはおじいさんはひつじを追う合間にふと足を止

めて、山の向こうを見つめてて、とても悲しそうな顔をするんだ。

だから僕も「あの山の向こうに何があるんだろう?」

って興味が沸いてきちゃったんだ。

僕は絶対この山の向こうに行く。

それでいろんなものを見て、

そうしたら帰ってきて、僕が見たものを全部おじいさんにお話してあげるんだ。

そうしたら、おじいさんは悲しい顔をするのをやめて

笑ってくれるかもしれないよ?

「ディノや、ありがとう」

って言って、僕をイイコイイコしてくれるんじゃないかなあ。

ああ、カラス!

考えただけで僕の尻尾がはちきれそうだよ。

さあ、行こう、行こう。

山の向こうには海があって、人魚が住んでいるという。

人魚にも会えるかなあ?

ん?

どうしたんだよ、カラス、そんな顔して。

僕には君のような翼はないけど

どこまでだって走っていけるよ。

さあ、僕についておいで!

夕空はこんなに晴れたから

澄んだ空にもうすぐ月が昇るよ。

月明かりに照らされながら僕達はどこまでも走ろう・・・・・・。


                                         つづく


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