夕空が晴れたなら Ⅰ
- カテゴリ:小説/詩
- 2011/06/08 21:30:20
バスから降り立つと、目の前には灰色のビルが林立し
せわしなく通りを行きかう人々の流れるさまが目に飛び込んできた。
霧のような雨が降っていてビルも人の群れも白く煙っている。
久しぶりに見る生まれ育った都会の光景はまるでユトリロの絵のようだ。
歩道の植え込みには紫陽花が色とりどりに咲き、
モノクロの世界に色を添えていた。
この紫陽花の咲く歩道に沿って続く坂道を歩いていけば
宿泊する予定のホテルはすぐそこだ。
今回じつに十数年ぶりに故郷の小学校の同窓会に出席することにしたのは
私の住んでいた家のほど近いところにとても思い出のある場所があり
そこをたまらなく訪れてみたくなったからだった。
とても立派なお屋敷で、広く大きな庭園に咲く紫陽花はじつに見事で
その美しい庭も優しいピアノの音色も、そこに住んでいた
不思議に暖かい声をした若い綺麗な夫人のことも、
私はここを去ってからもいつでもありありと思い浮かべることができた。
この生まれ育った都会を去ってから、ずっとまた訪れたいと思っていて
その確かに記憶にある大きなお屋敷のあったあたりに
これまでも何回か足を運んでいるのだが、
どういうわけかその場所はあるべき筈の場所をいくら捜してもみつからず、
私はいつもガッカリして新幹線に乗り、嫁いだ田舎まで、
(今は何物にも変えがたいものとなった)夫と子供の待つ我が家へ
グリーン席で落胆のタメイキをつきながら帰らねばならないのだった。
その日、私は隣のお兄ちゃんに失恋をした。
いま私は10歳なのだけれど、もうそれこそ幼稚園の頃からずっと憧れている。
お兄ちゃんのことを誰よりもよく知っているのは絶対私だと思うのに、
あんなどこの誰だか知らない、昨日今日知り合ったような女の人に
隆也お兄ちゃんをとられるなんて、全然納得がいかない。
ああ、どうして私、いま高校生じゃないんだろう・・・。
「ちょっと、結衣、あんたさっきから何ボンヤリしてるのよ?」
ママがいつのまにかスパゲッティ食べているフォークを置いて私を見ていた。
「エビフライもミートソースのスパゲッテイもアボガドのサラダも
みんなあんたの大好物でしょうが。
料理の苦手なママが今日は頑張ってつくったのに甲斐がないったら。
ご飯ちゃんと食べない子にはこのあとのアニメはみせてあげません」
ママは、ちょっと厚めの形のいい唇を尖らせて私を軽く睨んだ。
睨みつつも、いつもちょっと眠たそうにみえる目が探るようにくるくると動く。
「私、アニメなんて子供っぽいものもう見ないの。
今日は私のチャンネル権の日だけど、特別にママに譲ってあげる」
だがしかし、誠意一杯大人びた口調で言った台詞は軽くママに一蹴される。
「ほー大人ですこと。アニメもう見ないんだあ。
じゃあママ毎日ドラマみちゃおっかな~!
あとアニメも見ないような大人は、そろそろシャンプーハット使わずに
髪の毛洗ってみたら?アニメよりそっち先に卒業しよーぜえ、結衣ちゃんよ」
まだ日が高くて不自然かと思ったけどお風呂にはいった。
泣きそうな顔をママに見られたくなかったから。
もう今日からシャンプーハット使わない。
りんごのケースに入ったお風呂セットも使わない。
ママがいつも使ってる赤いヴィダルサスーンのシャンプーボトルを手に取った。
目をぎゅっとつぶってても、やっぱりシャンプーは目に沁みてくる。
でも今日は沁みてもいい。
お風呂のなかで一人で泣いてたってことがママにわからないもの。
シャンプーして体を洗って湯船に浸かったら、
さっき、塾の帰りにみた光景を思い出して涙がボロボロとこぼれてきた。
隆也お兄ちゃんは、ちょうど同じくらいにみえるトシの女の子と手をつないで
駅前の映画館にに入るところだった。
そか、今日土曜日だから学校終わるの高校生も早いんだ。
今人気の女優が出てるラブコメものだ。
そこで丁度塾帰りに反対側を歩いてきた私に隆也兄ちゃんは目ざとく気づき
「やあ、結衣いま塾の帰り?」って言ったわ。
あの女の子と手をつないだままで。
やめてよ、その手を離して。
そう言いたかったのに、言葉はついに声にならなかった。
お兄ちゃんはもうきっと忘れてる。
結衣をお嫁さんにしてくれるって言ったことも
私とお姫様ごっこをしていて、私がちょっと強引にキスしちゃったことも。
そういえばキス・・・。
あの人とはもうしたんだろうか・・・。
そう思ったら、余計に涙が止まらなくなった。
泣きながら歩いていて、いつの間にかかなり遠くの方まで歩いていた。
自分の家の方角から北にある、大きなお屋敷の多い地域まできていたのだった。
微かに美しいピアノの旋律が耳に届いてくる。
何処か暖かい感じがする、不思議な曲で以前にも聞いてる気がする。
『どこから聞こえてくるのだろう?』帰る事よりもまず
その音が何処から聞こえてくるのかが気になり始めた。
大きなお屋敷が多いのでかなりな距離を歩かないと分からない。
小走りに音の聞こえてくる方角へ向かってゆく。
自分の頭の中から、今日の出来事が消えていた
それよりも今は、この曲をかなでている場所へ行きたいと思った。
とても綺麗な竹垣の中から、その音は聞こえてくる。
丁度よく、目の前に裏木戸があり、それが開け放たれている。
少し考えたが、好奇心の方が先だった。もし中に入って見つかっても
「ステキなピアノが聞こえていたから」といえば許されそうな気がした。
中に入ると、花菖蒲や釣り鐘草の紫の花が綺麗に咲いている。
そして音のする白い洋風の華奢な建物の前には、ほどよく手入れされた
紫陽花がこれまた綺麗に咲き誇っていた。「きれ~い!」思わず声が出てしまった。
そのとたん白い洋風の建物の中の音が止まった。
「あっ」と思ったがすでに遅かった。『どうしよう』逃げるべきか・・・
大きなアルミサッシ製の窓が開き、レースのカーテンの向こうから
「いらっしゃい、結衣ちゃん。お待ちしてたわ」優しい声が響いてきた。
そこは住む人の暖かさと優しさを、伝える様な部屋だった。
子供の自分には、どれほどのものかわ分からないが、とても落ち着く。
「あのなぜ、私の事を知っているんですか?」出されたオレンジジュースより
何より気にかかっている事だった。
「そうね、何から話した方がいいのかな。最近体に何か異常はない?」
薄い空色の光るドレスをまとったとても優しい笑顔の女性は
前から知っているというような感じで話してくる。
「別に変わりはないですけど・・」思考回路がうまく働かない。
「三年前の夏の日の事憶えてる。夏祭りの花火の日」
結衣は何も覚えていなかった。それよりも自分は何故か
夏まつりも花火大会も嫌いだった。あの大きな音が嫌いなのかと思っていたが
自分でもよく理由が分からなかった。何故なんだろう。・・・
「そうね。何もないならいいわ、もし何か不思議な事が起こったら、
いい迷わずここに訪ねて来るのよ。私の名前は赤羽舞。いいわね。」
それからとりとめのない話をした、学校の事や家の事。
何故かこの優しい笑顔の多分ママよりも若い?人との話に引き込まれた。
夕方近くになって、運転手つきの車で送って貰い帰宅した。
今日はどうしたんだろうと思って、家の扉に手をかけた時にそれは起こった。
目の前が真っ白に包まれて(いや頭の中か?)乳白色のまばゆい光の中に
吸い込まれて、その一瞬の中にこの世の全ての歴史が見えた様な気がした・・・・・・・・・・・