Nicotto Town


はいどあんどしーく


お題「生きる」 タイトル:慣れ

 
  タイトル 慣れ

雨が降って、それまで無かった場所に水溜りが出来る。
そこにいつの間にか、小さな生物が泳いでいる。
それは他の場所からそこに移動して来たものでなく、
数カ月、もしくは数年間、その場所の地中で機会をじっと待ち、
そして雨を感知して、羽化をした微生物だ。
そういう生存本能と能力が備わっているとしても、実際大したものだ。
もしかして、「こんな苦労して嫌になるぜ」などと言っているかもしれないが、
でもそんな声は自分には届かないから、そこは知らない。

泣きたくなる。
無理難題を突き付けられ、かなり追いつめられ、切羽詰まっても、
それでも自力で解決しないといけない時、オーバーフローして、泣きたくなる。
だが涙は流せない。
脳のある部分が、自分で自分の力不足を呪い、他者の上げ足取りを罵倒し、
やがてそこが麻痺をしても、でもそれを解決するまで断続的に工夫や知恵を絞って、
文句を言われながらも、どうにかしてなんとかする。
脳内では何度も泣いたが、それを目から体液として出す訳にはいかない。
ネガティブな気持ちに犯されながらも、どうにかポーカーフェイスは崩さない。
やがて、それなりの成果を出し、祝杯をあげ、その時に達成感を勝利の美酒で祝い、
そこで笑顔で目じりからこぼれる水分だったら、それはそれでいい。

慣れる。
年を重ね、経験をして、自分なりに最良の方法だと思う事を、ごく自然とするようになる。
失敗を重ね、痛い目にあって、学習してそうなる。
そういう節目には、手痛い出費を支払うはめになるが、それは授業料だ。
だからと言って、それは己自身が経験上身につけたものであり、
当然のことながら他人とまるで同じ訳は無い。
正反対の考え方の持ち主と対峙すれば、当然軋轢を生むし、それは仕方がない話しだ。
そこは妥協するか、一方的に引き下がるか、相手が一方的に引き下がるかだ。
敢えてひん死の傷を負う事はしない。自己欺瞞と解っていてもそうする。
若い頃は、青臭い正義感が唯一正しいと信じ、そしてその腐った価値観を相手に押しつけ、
「俺が正しくて、お前は間違っている」と、あまりにバカだった。
その信じた正義が、どっかのアホの受け売りなのに、だがそれにあっさり染まる俺だった。
そう言う繰り返しをして、やっと愚かさに気が付き、
多方面からの言い分を聞ける耳を持てるようになり、ちょっと大人になった。

人生を半分以上生き、それでも未だに「それってどうなんだ?」って思う。
だが痛覚とは大したもので、あれだけの痛手を負っても、やがてそれに慣れるものだ。
比喩では無く、骨折したりしても、鎮静剤投与以外でも、自らその痛さに慣れる。
大きな恥をかかされても、烈火のごとく怒らないでも、今はうすら笑いでやり過ごせる。
これは経験したが上での慣れだ。体でその対処療法を身に付けた訳だ。

確かにダメージは軽減する、悪い事ではないはずだ。
だが、それで良いのか?とやはり思う。




Copyright © 2024 SMILE-LAB Co., Ltd. All Rights Reserved.