Nicotto Town



「らいてうと手当法」その3 女性解放編

結婚して子どもを産んで育休に入った時代に読んだ
平塚らいてうの 「原始、女は太陽だった 実に真正の人であった」
という女観に、

熱い叫びに、
心揺さぶられた

外からも内からも性差別という名の錠をかけた暗闇の部屋の

ろうそくの光の中で出会ったのが「女は太陽」だった

 

「女」に関連する本を読み漁った
1974年に「女はすぐれている」A・モンタギュー著の巻末にあった
性差別撤廃宣言を読んだ。

女だからという理由で差別されたくないという内なる叫びが

自分一人の暗闇の中の手探りではなく

世界の女の共通の視点だったのだと目の前が大きく拓けた


19751月朝日新聞の一面トップページに
小さな埋め草(空いたスペースを埋めるための小さな原稿)が掲載された

「『女はすぐれている』などという本を書いた女がいる、なんという女だ」
という内容だった
著者は男性であって女性ではないにもかかわらず

著者を女と言ってまで蔑視するのは許せなかった

わたしは朝日新聞本社に初めて電話をかけ
女性を蔑視する記事に抗議した

受話器を置いた手に伝わるほど心臓がバクバクしていた
それまで、女性解放運動を書物の上でしか知らなかったけれど
参政権のない時代、青鞜の女たちが揶揄され、蔑視された
 
マスメディアとの闘いは
自由と権利を手に入れた現在でも、まだまだ必要なのだと知った

朝日新聞には「著者は男でした」という訂正文が掲載されたが
反省や謝罪のひとこともなかった
女性読者を顧みない姿勢に静かな怒りがふつふつと湧いた

わたしは女性解放運動に参加し
事務局員として7年働き1985年に転職した
やりがいのある仕事だった

 

1989年だったか、わたしは祖母の遺産を代襲相続することになった

祖母は明治時代、東伊豆の山をいくつか持つ豪農の娘として生まれ

家父長の決めた婿養子候補と婚前妊娠出産を繰り返し強要された

祖母は子どもが死んでも日常と変わらぬ日を過ごし、
涙も流さなかったとそしられるが

わたしには、過酷すぎる人生が祖母の感情を押し殺す水底へ追いやったのだと見える

高校生の夏、わたしは父が生れた土地に父の兄である叔父に初めて招かれた。その土地には20数軒の血縁が暮らしている。
わたしを招待してくれた叔父の家で聞こえよがしの声が私の背中で語られた。

「こんなことしていいと思っているのか?将来どんなことになっても俺は知らんぞ」

わたしをここへ呼んだことを詰っているのだと気が付いた。

ここでは「わたし」は「私生子の子ども」なのだ。この土地にやってきてはいけない、親族から排除された存在であるのだ

横浜のわたしの家に一年中誰かかれかが出入りして、なじられる側もなじる側もよく顔を知っている。わたしは皆が親しい家族なのだと思い込まされてきた。

こちらの都合では行くけれども、こちらに来てもらっては困る
ー家族の排除と利用の「家」系の中でふりわけられてきた飴と鞭の論理だった。

父は反対した。わたしが叔父の家に遊びに行くことを阻めずに、がっくりとうなだれて後ろ向きに座った父の背中を忘れない。

わたしは伊豆に行くために初めて着るチャンスを与えられた白地にグリーンローズの総柄のワンピースを思い出す

伊豆から帰る日、グリーンローズは差別と闘うわたしのシンボルと決めた

「心を閉ざした」背中「言葉を圧殺された」生きざま

そういう場面にであうと、グリーンローズを思い出す

女性の産む産まない権利と子どもの平等を目指して
最高裁提訴や国連人権本部ロビー活動を行った
1995年、民法900条4項但し書き始まっていらいの最初の提訴は
残念なことに最高裁不平等決定となった
その年、国連世界民間女性会議が中国で開催され
アピール参加したあとでも、鬱屈した気分が抜けず
翌1996年夏、女性だけが参加できる
ミシガンウイミンズミュージックフェスティバルのキャンプに初めて参加した

このフェスティバルはアメリカの女性ミュージシャンのデビューゲートとして
ニューヨークで行われる審査とミシガンの森で行われるキャンプへの参加が定着し
毎年1000人から2000人近い参加者が世界中からテントを持って集まる
アメリカの本屋に並べられている申込書に案内されているキャンプ地は
外郭を一周するのに車で2日間かかる雄大なものだ
自然の丘や草原や森の中に大中小のいくつものステージがある

驚いたことにスタッフのケアワークとして
REIKI
ヒーリングが採用されていた
キャンプ参加者のREIKIワークショップも多数開催されていた
REIKIがアメリカの女性運動に定着するほど広まっていることに驚いた

女たちだけのミュージックやダンスステージ・映画を楽しみながら
ドラムスワークショップや世界各地の自然療法のワークに参加した

なかでも、昼前に行われるデモ行進は楽しかった

キャンプの中を練り歩き、建物や植物や大地の精霊を讃える

手に手に思い思いの楽器を持ち、存在するものに声をかけ賛歌する
10
日間のキャンプを満喫した

内なる自身の原初の熱を大自然の中でありのままに現実化するイベントを日本で味わうことのなかったわたしは新しい空気がおくりこまれたかのようなしびれるような自由観を満喫した


平塚らいてうが
「真の自由解放の域に達しせめる」
「真の現実家は神秘家でなければならぬことを、真の自然主義者は理想家でなければならぬことを見」

「真正の人とは(略)熱誠とは祈祷力である 意志の力である 禅定力である 神道力である 言い換えれば精神集注力である」
と謳いあげた世界がこのキャンプの
自由な空気の中に息づいていた

帰路、ポートランドのレストランで期せずして
ハワイ系ポートランド支部のREIKIヒーリングに招待された
このおうちにはハヤシチュウジロウが
アロハシャツを着てレイをかけ微笑んでいるポートレートが飾られていた
そこで「ハヤシチュウジロウはどのような漢字を書くのか」という質問があった
私自身、漢字で紹介されている資料を見たことがなかった
知っていてもいなくてもよいと思っていた
ハヤシチュウジロウが住んでいたとされる東信濃町まで歩いて20分ほどのところに住んでいることに気が付いてはいた
世界でこんなにも広まったREIKIであるのに
なぜ、ハヤシチュウジロウの靈氣は日本で途絶えたのか?
知りたかった
調べてみようという気になった






 

アバター
2015/10/04 19:25
男女平等の実現って、まだまだ成熟してないけど、
以前に比べれば格段に改善されていることは確かで、
それは先人の方々がものすごい努力をされた結果なんですよね。
「昔は女性は結婚しないと生きて行けなかったもの」と母がよく言ってますが、
その点、私は自分で選択できる時代に遭遇できて幸せ者です。
さてなぜ日本でREIKIが途絶えたのか、続き待ってます^^



カテゴリ

>>カテゴリ一覧を開く

月別アーカイブ

2022

2021

2020

2019

2018

2017

2016

2015

2014

2013


Copyright © 2024 SMILE-LAB Co., Ltd. All Rights Reserved.