Nicotto Town


人に優しく。


お母さん


お母さんなんだ。

一瞬、頭の中が真っ白になる。

亜夜の動揺をよそに、その存在は明るく笑っていることに気付いた。

やれやれ、今頃気付いたの。

やあねえ、亜夜ちゃんたら。

そんな声が聞こえたような気がした——いや、心に浮かんだというほうが近い。

亜夜は自分にあきれた。

なぜ気付かなかったのだろう——そうだ、誰よりも親しく、懐かしく、温かく見守っている存在。

いつもそばにいてくれた——、あたしに音楽のすべてを与えてくれた——、突然いなくなってしまったお母さん。

いや、いなくなったわけではない——やはりいつもそばにいたのだ。

あたしが、振り向きさえすればそこに。

ごめんなさい、お母さん。

亜夜は、頬に温かいものが伝うのを感じた。

一瞬の間。

何か激しいものが身体の底から込み上げてくる。

亜夜は両手の指をいっぱいに広げて、カデンツァの最初の和音を鳴らした。





ー 『蜜蜂と遠雷』 恩田陸 ー




 




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