Nicotto Town



「らいてうと手当法」 を聞きに行くまで


『らいてうの手当法を知ったいきさつ』
わたしが平塚らいてうの手当法を知ったのは、20代のころ読んだらいてう自伝「原始、女性は太陽であった」だった。
当時、育児休暇中で、トイレも外出も自分の意にならない生活に押しつぶされて
「なんでわたしだけ家事育児?」という疑問のなかにいた。「女なんだから当たり前」という周囲の考えは話す相手のいない真っ白な家の壁が見えない檻であるかのようにたちはだかっていた。
「女性」とタイトルのある本をかたっぱしから読んだ。女らしく生きることをすすめる本はわたしを絶望に追い込もうとするかのようだった。そんな中で「性別による在り方」に疑問をもっていいのだという方向性を見いだせる本が数冊あった。
そのひとつが、らいてうの自伝だった。

らいてうの自伝は全4巻で、女は家長の従属物として隷従させられていた選挙権がない時代、仕事をもち、発言する場を作った女の生き方と考え方は励ましになった。私の悩みは自分だけではない、すべての女性の問題なのだと認識できた。
そのなかのわずかな記述であるが、戦時中、執筆の仕事が途絶えたとき「手当法」が生活を支えたとあった。
「手当法」は、懐かしい言葉だった。

『祖母の手当法』
わたしは敗戦時に横浜で生まれ、祖母に6歳まで育てられた。今ではコンクリート舗装されている家の前の道が土や小石のある時代だった。外で転んでひざをすりむくと、道でうずくまっているわたしのひざに血にまみれた小石がついたまま祖母は手を当てた。
手を当てると、痛みが増す。この痛みは転んだ時の自分を苛める痛みとは違う質を持っていた。この痛さが傷を早くに治している証拠なんだと祖母は教えた。祖母の手をあてた傷口の痛さは、傷を作る前の自分にもどる「痛みの逆転」だった。
「「手当」って何?」と聞くと
痛みのあるところへは自然に手がいく。具合が悪い所へ自然に手がいくのはそういうふうに仕組まれている人間本来のものなんだ。それを「手当」というのだというのが祖母の答えだった。
生活必需品を闇市に頼る焼け野原の横浜で、消毒薬は隣近所で融通しあうものだった。戦後の復興が進み、一家にひとつは赤チンやマーキュロがそろえられるようになると、母親は祖母の「手当」を毛嫌いし、わたしの膝小僧の傷口に赤チンを塗った。「手当法」と「赤チン消毒法」は、治り方がまったく異なっていた。
手当法で治す傷口は傷跡が残らず、きれいなピンク色の皮膚が再生されたが、赤チン消毒法は治りが遅く、いつまでも痛みが後を引き、ジュクジュクとしたうえに大きなかさぶたができ傷跡を残した。今振り返ると、赤チン消毒で治っていく過程の痛さを凝縮した「回復への動き」が手を当てたときの「痛さ」なのではないかと思う。小石が食い込んだ細胞が弾みをつけて異物を押し出すときの痛みや、傷口から出る体液がしみ込んでいく感触や、新しい細胞が再生されていく盛り上がりのなんともいえない動きまでもが含まれているかのように思える。決定的に違うのはかさぶたができるかできないかだった。かさぶたができると皮膚がつり、がまんできずにかさぶたをはがすことをくり返し、二次的な傷を消毒薬は引き起こした。
小学校に通うようになって、祖母の家から引っ越して、新しく建てた家に両親と住み始めていたわたしは傷ができると祖母の家にかけこんだ。

祖母がなくなり、成長するにしたがい、わたしは手当法を忘れていった。
子どもが産まれて、泣き止まないとき、無意識に手を当てたりしていたが、それは「手当法」としてではなく、人間の持つ自然な気持ち、いたわる気持ちとして手を伸ばすものだった。
そんなとき、らいてうの手当法を読んだのだった。

『手当法との再会』
「手当法」について知りたいと思っていた1970年代はインターネットで情報を集めるという手段がなかった時代で、図書館や本屋で探して見つかるものではなかった。
夫は仕事一筋で、家庭を顧みず、「男は仕事・女は家事育児」という典型的な性別役割分業家庭となっていた。わたしは自宅に大きな和文タイプのデスクをすえて働いていたが、それだけでは解決できない「結婚」とは、子どもとは、自分とは何かということを話し合える大人の時間がほしかった。3人目の子どもを産んだあと、わたしは共同保育を始めた。
共同保育でわたしはたくさんの女性たちと知り合い、新しい情報とであった
そのうちのひとつが「野口整体」だった。
野口整体は2・3冊の本を読み独学で日常の生活に取り入れた。
野口整体はわたしが知っている「祖母の手当法」とは似ても似つかない頭脳的・技巧的なものだった。「野口整体」はあくまでも「整体法」であって、「祖母の手当法」と一線を引くものだった。
「手当法」は自然本来の人間が持って生まれた「生命力」の発動であって、野口整体は「健康法」となった。

『治療としての「手当法」』
18歳で結婚したわたしは24歳までの6年間で「家事育児のひとり戦争」から「共同保育」の場に参加し、自宅に和文タイプを入れ仕事ができるようになり、自分をとりもどしていった。
「結婚で奪われた自分らしさ」という思いは、「男は主人 女は奥さん」という社会のありように奪われた「女の立場」から生じたのだと気が付いていった。
気が付いていく道程で、夫との関係は「性格の不一致」という言葉で言い表せない、異次元の世界にそれぞれが住んでいたことを鮮明にしていった。
30歳で離婚できるまで、わたしはがむしゃらに働いた。疲労困憊した結婚生活のなかで得た整体法はわたしのからだの回復を速めてくれた。
35歳のとき過労で倒れ、「野口整体」の手当治療をしてもらった。からだのなかをソーダ水がシュワッと駆け巡った。快感が気持ちよさが全身を駆けまわった。この快感体験は、それまでに味わったことのないもので、これが野口整体の「手当法」なのだと感動した。
施術が終わったあと、視覚が明確になったことは特に驚きだった。背筋が伸び、心が明るくなった。

ー続くー

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2015/09/11 11:18
テレビのニュースを見て各地 関東から東北で大きな被害が出てビックリ唖然としています
大潮さん
怪我や被害に遭わない様に気を付けて下さい
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2015/09/04 22:22
続きは迷走中
なんだか人生ドラマになっちまってる~
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2015/09/03 10:03
続きはまだかなぁ~
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2015/08/31 21:11
「具合の悪いところに自然に手が行く」
なるほど! 確かに手が行きますね。
太極拳とかでも気を手から出すので(私レベルじゃやっていても何も出て来ませんが;;)、
手ってすごいところなんでしょうね。


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2015/08/31 20:20
野口整体、、お産の時に、、お世話になりました

風邪の効用  など、、目からウロコだったけど、、妙に納得したものです

体の不思議、、本来なら、、子供たちに、、、、学校で教えて欲しいですね、、
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2015/08/31 18:38
最初見たら 長い!
ってのが感想だったわ(^_−)−☆
だけど あっと言う間に読み終わった=(^.^)=
まだ最後まで読まないと感想はわからないけど^ ^
続きを待ってるね〜



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