Nicotto Town



忘れていませんか?あの日のことを!

1995年1月17日午前5:47、「それは、不気味な地鳴りから始まった」

死者:6,434名 行方不明者:3名 負傷者:43,792名
全半壊合計249,180棟(約46万世帯)、住家全焼6,148棟
『阪神淡路大震災』

あのとき、神戸の人たちの多くの人が家族を失い、ライフラインを失い、
家も仕事も、何もかも失いました。

しかし、そこで生まれた物もあります

それは、誰もが、自分の事だけでなく

自分の

周りの人への思い遣りと、助け合う心が生まれました

私の主人も1月31日救援物資(カセットコンロのガスボンベ100本、ミネラルウオ-タ
20リットル、女性の下着と生理用品、そして、新鮮な野菜と、須磨区に住む
友人の家族に暖かい鍋料理を食べて貰おうという気持ちから、丸ごとアンコウ1匹、等
を)を車に満載して、まだ、道がズタズタ状態の中を運びました。

また、主人がこの惨状は我が子の肉眼で見させておく必要があると、2月10日に
家族4人(当時、娘は13歳、息子は11歳でした)が、主人の車で須磨の友人を
見舞いがてら、長田区の全焼し壊滅した菅原市場付近を、歩いて周り、写真撮影
し、避難所にも足を運んだことを覚えています。

現代の日本人が経験した最もひどい災害でした。

しかし、最悪の極限状態になったとき、人は本当の強さを発揮できるのですね!
そして、自分を守ってくれた文明の利器を失って、自らの出来ることを考え
ただひたすら、明日への希望を育て、互いに励まし合い、全力で生きることが
出来るのですね。

そして、15年!家は建て直され、町もその傷跡をほとんど消して、復興しました。
でも、優しかった人々の心は薄れていませんか?

家が大きくなって、
人の心が小さくなった

そんな気がするのは、私だけでしょうか?

きっと神戸に当時から済む人の心から、あの時の恐怖、苦しさ、絶望は
消えるはずがありません。

でもあの時日本中の人が神戸を心配し
救いの手を差し伸べた、
「何としても神戸の人たちに元気になって貰いたい」
との、切なる思いは何処へ行ったのでしょうか?

私は、東京大空襲の時はまだこの世に生まれていませんので、記録で
見るしか有りませんが、1945年3月10日、4月13日、4月15日、5月25日
の4回の大空襲で東京の町は2/3も消失、約70万戸が消失、25,000人
もの民間人(女、子供が犠牲者の中心)が亡くなりました。

この、人災の時も人々は自分の家族を失い、親を失った子供を、みんなで
助けて、生きる希望さえ失いかけていた時
みんなが、お互いを助け合って生きて、
そして未来へ歩き続けたからこそ、東京はあのように甦ったのです。

でも、それから65年がたち、その大空襲を知る人が少なくなり
何もかもが、手に入る町になって、

町は大きくなって
  人の心は麗しさを失い
          小さくなった

そんな気がして、何だか心配になるのは私だけでしょうか?

子供達に、しっかりと
人間が失ってはいけない、自分の周りの人への、思い遣りと、
強い心に支えられた優しい心を持つことを、教えておきたいと
思います。



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2010/03/29 03:41
じゅん さん>そうなんですか、あの時の神戸を彼女の住む明石に向かって歩いた・・・
      大切な思い出を、教えて下さって「ありがとう」!
      周りの人に、思い遣りを持って生きていきたいですね!
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2010/03/28 20:48
1月で、ぼっこぼこの道を明石のほうに向かっていたかな。
(当時彼女が明石に居たので)
真冬で凄く寒くて。
焚き火にあたっていたおじさん数人をかじかみながら『暖かそう』って思いながら見ていたら、
『コーヒー』飲んでけよ』って言ってくれて。
暖かいカップで指を暖めた覚えがあるかな。
ガレキの中、不思議と生きているっていう実感があったような。

家が大きくなって、人の心が小さくなった。
町は大きくなって人の心は麗しさを失い小さくなった。

考えさせられてしまいます。
ふつうに生活できる有難み、忘れては駄目ですね。




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