Nicotto Town



散歩の途中

彼は視線について考えてみることにした。青豆がそこで何を見ていたか。そして天吾自身が何を見ていたか。時間の流れと視線の動きに沿って思い返してみよう。

 天吾の手を握りしめながら、その少女は天吾の顔をまっすぐ見ていた。彼女はその視線をいっときも逸らさなかった。天吾は最初のうち、彼女のとった行為の意味がまったく理解できず、説明を求めるように相手の目を見た。ここには何かしらの誤解があるに違いない。あるいは間違いがあるに違いない。天吾はそう思った。しかしそこには誤解もなければ、間違いもなかった。彼にわかったのは、その少女の瞳がびっくりするほど深く澄み渡っていることだった。そんなに混じりけなく澄んだ一対の瞳を、彼はそれまで一度も目にしたことがなかった。透き通っていながら、底が見えないくらい深い泉のようだ。長くのぞき込んでいると、中に自分が吸い込まれてしまいそうだった。だから相手の目から逃れるように視線を逸らせた。逸らせないわけにはいかなかった。

 彼はまず足もとの板張りの床を眺め、人影のない教室の入り口を眺め、それから小さく首を曲げて窓の外に目をやった。そのあいだも青豆の視線は揺らがなかった。彼女は窓の外を見ている天吾の目をそのまま凝視していた。その視線を彼はひりひりと肌に感じることができた。そして彼女の指は変わらぬ力で天吾の左手を握り締めていた。その握力には一片の揺らぎもなく、迷いもなかった。彼女は怯えてはいなかった。彼女が怯えなくてはならないものは何ひとつなかった。そしてその指先を通して天吾にその気持ちを伝えようとしていた。

 掃除のあとだったから、空気を入れ換えるために窓は大きく開けられ、白いカーテンが緩やかに風にそよいでいた。その向こうには空が広がっていた。十二月になっていたがまだそれほど寒くはない。空の高いところには雲が浮かんでいた。秋の名残をとどめたまっすぐな白い雲だ。ついさっき刷毛で引かれたばかりのように見える。それからそこには何かがあった。何かがその雲の下に浮かんでいた。太陽? いや、違う。それは太陽ではない。

 天吾は息を止め、こめかみに指を当てて記憶をより深いところまでのぞき込もうとした。その今にも切れてしまいそうな意識の細い糸をたどっていった。

 <b>そう、そこには月があった。</b>

 まだ夕暮れには間があったが、そこには月がぽっかりと浮かんでいた。四分の三の大きさの月だ。まだこんなに明るいうちに、こんなに大きく鮮やかに月を見ることができるんだ、と天吾は感心した。そのことを覚えている。その無感覚な灰色の岩塊は、まるで目に見えぬ糸にぶらさげられたようなかっこうで、所在なさそうに空の低いところに浮かんでいた。そこには何かしら人工的な雰囲気が漂っていた。ちょっと見たところ、芝居の小道具で使われる作り物の月のように見えた。しかしもちろんそれは本物の月だった。当然のことだ。誰も本物の空にわざわざ手間暇かけて、偽物の月を吊したりはしない。

 ふと気がついたとき、青豆はもう天吾の目を見てはいなかった。その視線は彼が見ているのと同じ方向にむけられていた。青豆も彼と同じように、そこに浮かんだ白昼の月を見つめていた。天吾の手をしっかり握りながら、とても真剣な顔つきで。天吾はもう一度彼女の目を見た。彼女の瞳はもうさきほどのようには澄んでいなかった。あれはあくまでいっときの、特別な種類の澄み渡り方だったのだ。しかしその代わりに今ではそこに堅く結晶したものが見受けられた。それは艶やかでありながら、同時に霜を思わせる厳しさを含んだものだった。それがいったい何を意味するのか、天吾には把握できなかった。

 やがてその少女ははっきりと心を定めたようだった。握っていた手を唐突に放し、天吾にくるりと背中を向け、ひとことの言葉もなく、足早に教室から出て行った。一度も後ろを振り返ることなく、天吾を深い空白の中に置き去りにして。

 

 天吾は目を開けて意識の集中を解き、深い息を吐き、それからバーボン?ウィスキーを一口飲んだ。それが喉を越えて、食道を降りていく感触を味わった。そしてもう一度息を吸い込み、吐いた。青豆の姿はもう見えなかった。彼女は背を向けて、教室の外に去ってしまったのだ。そして彼の人生から姿を消してしまった。

 それから二十年が経過した。

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2013/08/13 11:33

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