Nicotto Town


哲学的な何か、あと心の病とか


墓碑銘

池田晶子さんは、2007年2月23日に腎臓癌で亡くなった。享年46歳。物書きとしてまだまだ活躍中での逝去であったが、おそらく心を残すことはなかったと思う。難解な哲学専門語を使わずに、考えること(哲学すること)とはどういうことかを日常語で語る「哲学エッセイ」を数多く執筆してきた。彼女の最後の著書は、『人間自身 考えることに終わりなく』であった。そして、その著書の一番最後に掲載されたエッセイのテーマは「墓碑銘」。
生前、「死ぬことを怖いと思ったことがない。私にはいのち根性がない。」と語っていた彼女。その「墓碑銘」の中にこんな記述がある。

ローマでは、墓石にその人の来歴(いくつで結婚、何児を成し、かれこれの仕事に従事して、こんなふうな人物だった、というもの)など、書き物を遺す習慣がある。それを見て人物を想像しながら、墓地を散策するのも、一つの楽しみであるらしい。なにしろ、人生つまり、その人間の最終形が、そこに刻印されている。人は、記された言葉から人物を想像したり、感心したりしながら読んでくる。
と、そこにいきなり、こんな墓碑銘が刻まれているのを人は読む。
「次はお前だ」。
ラテン語だろう。そうでなくても尋常ではない。楽しいお墓ウォッチング、ギョッとして人は醒めてしまうはずだ。他人事だと思っていた死が、完全に自分のものであったことを人は嫌でも思い出すのだ。それを見越してこの文句、大変な食わせ者である。
私は大いに笑った。この文句の向こうを張るならどうだろう。「ほっといてくれ」というのは、ひとつあるかな。私の人生がどうであれ、あんたには関係ないでしょうが。死後勝手なことを書かれたくない、死後に名を残したくないという人にはふさわしいでしょう。「死んだ者勝ち」というのも、なかなかいいですね。あんた方、生きてる者が勝ちと思ってるでしょうが、ほんとにそうかね?
完全に弔辞の逆であるが、「次はお前だ」というこの一言のもつ圧倒的な力にはかなわない。こんな文句を自分の墓に書かせたのはどんな人物なのか、それこそ想像力がかき立てられる。諧謔を解する軽妙な人物である一方、存在への畏怖に深く目覚めている人物ではないかという気がする。生きている者は必ず死ぬという当たり前の謎、謎を生者に差し出して死んだ死者は、やはり謎の中に在ることを自覚しているのである。あるいは、死者を語ることを含め、すべては物語であるという自覚。
これに比べて、我が国の墓碑銘めいたもの、「色即是空」とか「諸行無常」とか、書きたがる人はいますけれども、どうももうひとつですねえ。説明くさくて、謙虚でない。なんかまるで全部わかっているみたいである。まだそんなこと言ってんのという感じになる。こういうことを言いたがる人や遺族は、実は自分が死ぬということをまだわかっていないのである。
それなら私はどうしよう。一生涯存在の謎を追い求め、表現しようともがいた物書きである。ならこんなのはどうだろう。「さて死んだのは誰なのか」。楽しいお墓ウォッチングで、不意打ちを喰らって考え込んでくれる人はいますかね。




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