Nicotto Town


哲学的な何か、あと心の病とか


私の哲学はパラドクス?

フランスの思想家モンテーニュは懐疑主義で知られるが、その基本的な考え方である「すべてが疑わしい」をそのままの形では述べなかった。
なぜか?
「すべてが疑わしい」という発言に対し、「おまえの『すべてが疑わしい』という考え方も疑わしい」と反論されるのを恐れたからだ。
そこでモンテーニュが言ったのが有名な「クセジュ?(私は何を知っていようか?)」である。
「疑わしい」と断言するのではなく「確実なことはあるのだろうか?私は何も知らないのではないだろうか?」と疑問形にとどめることで、パラドクス(自己言及のパラドクスという)を回避したのだ。

この自己言及のパラドクスの解決法の1つに、言語階層説がある。

うそつきパラドクス「この文はウソである」を例に取ると、「この文はウソである」がパラドクスとなるのは「この文はウソである」が指す「文」が自分自身であることだ。
しかし、よくよく考えると、「この文はウソである」という文そのものと、そのなかで言及されている「文」とは、次元が違う気がする。
そこで、文中で「文」のように語られる言語を対象言語と呼び、それを語る言語をメタ言語と呼ぶ。
つまり、言語のなかに階層を作るわけだ。
そして、対象言語である文を0次元の文として〈文0〉とし、メタ言語である文全体を1次元の文として〈文1〉とし、式で書くと、
  〈文1〉=「この〈文0〉はウソである」
となり、〈文1〉と〈文0〉とは別物(自己言及されない)となる。

私の哲学である「わからない」を「確実なことはない」と言い換えると「おまえの『確実なことはない』という考え方も確実ではない」と反論することができるが、この言語のなかに階層を作ると、
  〈確実なこと1〉=「〈確実なこと0〉はない」
となり自己言及のパラドクスとならない。




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