Nicotto Town


哲学的な何か、あと心の病とか


量子論の世界観について

池田晶子さんのエッセイに、次の記述がある。

「「自分と世界」と人はいう。見える世界が先にあり、それを自分が見ているのだと、、」(これは勘違いで)、「世界は、視界は、必ず自分から開けている。自分が世界の開けである。自分が存在しなければ世界は存在しないのである。だから、「自分と世界」なのではなくて、「自分が世界」なのである。」(「老眼に想う」) 

「すべての人間は、自分の見たいものしか見られない。見えないものを見たいと思っても、やっぱり見えるものを見るしかない。いかな聖人君子といえど、その人が世界を見る見方は、その人が世界を見る見方でしかあり得ないのである。すなわち、世界とは、「その人の」世界でしかあり得ないのである。」(「見たいもの見えるもの」) 

 
量子論は、「観測という行為があって初めて対象の状態が確定する」と言っている。
 
それは、どういうことかと例えで言えば、夜空の月は観測するもの(例えば、人)が見ることによって月は存在するのであって、観測するものがいなければ月は存在しない、というようなことを言っている。
私には、池田晶子さんが言っていることは、「量子論の世界観」を言っているように見えるが、私はどう考えているかと言うと、全ての疑問への全ての答えは、よくよく考えれば、結局「全て分からない」という立場なので、池田晶子さんが言っていること(=「量子論の世界観」)は、正しいかどうかは分からない。

観測するものがいなくても、月は存在しているのかもしれないし、観測するものがいなければ、月は存在していないかもしれない。
私は、そのように考えている。


<追記>
但し、普段、他の人と会話するときは、「分からない」では会話が成り立たないときもありますので、その一歩手前(分からないの一歩手前)で自分の意見を言っております。

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2013/09/01 09:49
〉ノアさんへ

コメントありがとうございます。

〉物や、音はあふれていますが認識するのは、自分の知覚で。意識にあるものは、見えるし聞こえるけれどそれ以外は、見流し聞き流していますね。自分の意識があってそこにある物が、存在するものとして初めて認識できる。物も人も、対象があって初めて存在を確認できる自分があって、そこから世界が広がる。と、ここまで考えをめぐらせ再確認できました。

私がこの記事で言いたかったのは、論理的に考えれば、実際にものが存在するのか、それとも、実際にはものが存在せず私の頭に描いた絵せらごとか、分からないということです。
別の言い方をすれば、「この世界は現実か、それとも、仮想か」「この世界は本物か、それとも、偽物か」が分からないということです。

では、池田晶子さんはそれについてどう考えていたかというと、私が思うには、どちらかというと、それぞれが、それぞれの頭に描いた仮想ではないのかと考えていたのではないかと思います。
(できることならば、私と違う考えですので、このことを池田晶子さんに聞きたかったのですが。)

〉(すべての存在理由は、コレかな?人の存在理由も見えてきましたよ)

もしも、はっきりと存在理由が見えましたら、私にこっそりと(笑)教えて下さりますようお願い致します。
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2013/08/31 11:58
物や、音はあふれていますが
認識するのは、自分の知覚で。

意識にあるものは、見えるし聞こえるけれど
それ以外は、見流し聞き流していますね。

自分の意識があって
そこにある物が、存在するものとして初めて認識できる。

物も人も、対象があって初めて
存在を確認できる

自分があって、そこから世界が広がる。

と、ここまで考えをめぐらせ再確認できました。

(すべての存在理由は、コレかな?人の存在理由も見えてきましたよ)



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