Nicotto Town


哲学的な何か、あと心の病とか


池田晶子「死は現実にはあり得ない-自殺」

 年間の自殺者は3万人を超える。交通事故死者よりずっと多い。とくに最近は中高年の自殺が増えている。
 ネット心中の場合は、あれを心中と言うべきなのか、みんなでなんとなく気分にまかせて、といった趣きだが、こちらはおそらくそうではない。おそらく、一人で深く思い詰めて、しかし最後まで周囲を気遣って、という人が多いと思われる。
 人間は自殺する唯一の生物である。以前にも述べたけれども、それは、人間が観念としての死をもつからである。観念としての死とは、要するに、現実の死ではないところの死である。しかし、現実の死、つまり自分が現実に死ぬ時には、自分が現実に死ぬのだから、自分が現実に死ぬのではない時の死は、すべて観念としての死である。ということは、生きている限り、人間にとっての死は、すべて観念だということである。死は現実にはあり得ないという、驚くべき当たり前のことである。
 当たり前、よく考えると確かにこの通りなのだが、当たり前のことほど人は考えないものだから、多くの人はこの当たり前に気づかないまま、一生を終えることになる。それが、他人事ながら、もったいないと言えばもったいないような感じがする。
 自殺する人は、どうして自殺するのだろうか。
 絶望して、追い詰められて、他にもどうしようもなくなって、つまり、もうそれ以上生きていたくなくなって、人は自殺するのである。観念であるところの死は、通常は、恐怖されて避けられる対象となるが、この場合は、求められ、欲せられる対象となる。しかし、考えられていない死が、恐怖の対象であるという点は、おそらく変わっていない。ゆえに、この時、死は欲せられながら恐怖されるわけである。恐怖されながら、欲せられるわけである。これはものすごい葛藤であるはずだ。やはり他人事ながら、この葛藤を想像すると、それだけで気の毒な感じになる。
 で、この葛藤を超越するために、自殺する人はどうするかというと、衝動に身をまかせるのである。発作的に死ぬのである。たぶんそうだと思う。何がどうあれとにかくもう生きていたくはないのだ。ただその思いだけで、エイヤッと跳ぶのである。
 ところで、再び冷静に考えてみたい。人が、「生きていたくない」つまり「死にたい」と思うということは、死ねば、生きなくてすむと思うからである。死ねば、死ねると思うからである。しかし、これは本当なのだろうか。
 なるほど、生きなくてすむためには、自分を殺すしか方法はない。自分を殺すということは、自分を無くするということである。自殺する人は、自分を無くすることを欲して、つまり無を欲して、自殺するのである。しかし、死ぬということは、無になるということで、本当にいいのだろうか。
 なるほで、死んだ人はいなくなって、無になったように、生きている我々には思える。けれども、死んだ人は死んで無になったと本当に思っているのなら、なんで我々は墓参りなどするものだろうか。なんで心の中で語りかけたりするものだろうか。これは、死んだ人は無になったとはじつは誰も思ってはいないことの、まぎれもない証左であろう。
 だからと言って、これは、死後にもなお何かがあるという話とも、ちょっと違う。死後を云々する人とて、生きている人なのだから、そんなのが本当なのかどうかわからないのは道理である。唯一確かに言えるのは、以下の恐るべき当たり前、すなわち、無なんてものは、無いから無である、このことだけなのである。
 その意味で、自殺は逃げであるというのは、まったく正しい。我々は、生きることからは逃げられても、無くならないということから逃げられるものではない。そのことをどこかで知っている我々は、それを指して、「後生が悪い」と、正しく言ってきたのである。

 死なんとする人、待たれよ、しばし。

by 池田晶子


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2014/01/25 17:56
全く死なんて考えないので、分からないが、現実的に自殺すると、すごい人迷惑だし、顔がふくれたりするし、この意見には、同感。
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2013/11/20 10:46
読んでいると内容としては堂々巡りの感があるけど。
なぜ自ら自殺しなければならないかと言う疑問、特に当事者に、考え直してみてという第3者の意見と、いじめられて死ぬ気持に同情してしまうといった矛盾も簡単にたどり着くのでこういった堂々巡りとなるのかもしれませんね。
またその繰り返しと変わらないけどいずれかは死ぬのにどうしてわざわざ生を食い止めるのか?
切りがない物事の一つでしょうね。
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2013/11/16 19:31
物質的なこと
科学的なことはわかりませんが

生きていたということで
存在していた空間や、所持していた物
関わっていきた、誰かの心の中に残る
という意味では
「無にはならない」
んだろうけれど。。。

死なんとする人、待たれよ、しばし。
残された人や、現場を処理する人の身にもなってみろよ。
というのもあるかな。。。

(連投、失礼しました)
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2013/11/16 19:19
まだ、『再び自殺』の記事を拝読していません
(すみません、そちらは後に拝読予定です)

ノアは、「死」を恐怖とは思わない
「行き続けることに、強い拘りが無い」
という方が、ぴったりかも。

①「死にたい」と思う人は
 「生き続けたい」と願う人と同じくらいに
 「生きるということ」に強いこだわりを持っている

②「自殺願望を持つ人」と、「実際に実行して死んでしまう人」とは
 別物であること

などを、考えたことがあります。
(鬱病で入退院を繰り返し、自死未遂もあるという友人がいました)

③「自死」を実際に実行してしまう時は
 すでに、正常な精神では無い状態だと思います。

④墓参りって、亡き人の魂を云々て言う人もいるけど
 墓を建てたり、お参りするという行為は
 「愛する人を失った、この世に残された人の心の拠り所」
 「自分が死んだら、生きていた証が欲しい。そのための場所を確保し、受け継いで欲しい」
んじゃないかな?と、感じています。
(ノア自身の墓は、要らない。誰も悲しまないし、後々墓があることで誰かを煩わせたくない)
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2013/11/15 18:03
死んだら無になればいいなと思う一人です。

でも、無なのかどうかは定かではない。

無ならば恐怖も無いと思えるからそう願うのかも知れないけど…
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2013/11/15 11:05
おはようございます^^
私の知り合いで過去に自殺願望があり、現在も鬱病の治療中の方から聞いた話しです。
今現在、薬の量も減り明るく、前向きになってきておられますが、死にたいと思った時には、死ぬ事は苦しい事ではなく、楽になる事だと思っていたと言われていました。死にたいと思うと食欲もなくなり、全ての事にやる気がなくなり、ただただ、どうやって死のうか考えていたと言われます。恐怖心もなかったわけではないが、それ以上に生きている事が辛かったといわれます。当時は相談する人もなく一人で悩まれていました。今現在、親や兄弟に助けられ、私達仲間ができて話す事や、一緒に活動する事で薬と併用して、明るさ、生きる事の楽しさ、前向きさを取り戻してきておられます^^
死ぬ事で肉体はなくなっても、無になるのではないのだから、

『人は考える葦である』人間は自然の中でもっとも弱い一本の葦みたいなものだが、それは考えるという能力をもった存在だということ。自殺を考え逃げる事は、無になろうと考えるだけ、本当に無にはなれないのですよね。
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2013/11/14 19:44
死と生というのは概念から始まってるわけですから
そこに明確な区切りというのはないのかもですね
人間だけが考えるのかは人間である以上計り知れないですが。
人間は悩むものだから、衝動でやってること、生きることを終わらせたい。というのは
あながち間違っていないのでは、ですね。

(足りない脳みそで考えたので文章がめっちゃくちゃですみません)



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