Nicotto Town


哲学的な何か、あと心の病とか


池田晶子「死ねば楽になれるのか-再び自殺」

 じっさい、死んで楽になる保証など、どこにもないのである。
 自殺する人は、死ねば楽になる、死んで楽になりたい、その一心で自殺するわけだが、死んで楽になる保証など、どこにもないのである。ちょっと考えればすぐわかるはずなのだが、とにかく生きているのが苦しいものだから、「生きているのが苦しい」の裏返しは、「死ねば楽になる」であると、短絡してしまうのであろう。
 この短絡が起こるもうひとつの大きな理由がある。先に死んだ人は、死んだことで、楽になったように見えるからである。つまり、もう生きていないから、生きなくてもすんでいるから、楽になったように見えるのである。しかし、ここでもむろん、我々は立ち止まることができる。
 なるほで、死んだ人は生きなくてすむから、楽になったように、生きている我々には見える。しかし、死んだ人自身が本当に楽になっているかどうか、じつは知れたものではない。そんなことは、我々にはわからない。ひょっとしたら、死ぬということは、とくに自ら死ぬということは、生きていることよりも苦しいことであったとしたら、どうする。
 「死んだ人自身」なんてものはない。死ぬということは自分が無になるということなのだと、こう考えることもできる。無になるということが、すなわち、楽になるということなのだと。
 しかし、無が楽であるとは、どういうことなのだろうか。無とは、文字通り無なのだから、そこには苦しいも楽しいもないはずである。そんなものは、なんにもないはずである。ゆえに、無になることが楽になることだと言っている人は、無になることが楽になることだと言っているのでは、じつはない。正確には、生きていることの苦しみが無になること、それが楽になることだと言っていることになる。
 けれども、ここでもなお我々は立ち止まることができる。つまり、この理屈によれば、死んで無になれば、生きていることの苦しみがなくなって楽になったと思っている自分もまた、ないはずだということである。楽になったと思っている自分がないのだから、楽になるということも、当然、ない。要するに、生きていることの苦しみが無になることが楽になることだというのは、あくまでも、生きている自分がそう思っているだけだということである。ということは、死ねば楽になるなんてことは、やっぱり、ないということである。
 えい、うるさいわ、理屈なんぞはどうでもいいわ。とにかく自分はこの苦しみから逃れたいのだ、死んですべてを無にしたいのだ。かくして人は、自問自答の堂々巡りの末に、衝動的に死ぬのであろう。
 ああ、しかし、うるさいようだけれども、それでもなお我々は考えられるのである。いやここでこそ、せめて死ぬ前に一度くらいは、まともにものを考えてみていいのである。なるほど、すべてを無にしたい。しかし、無なんてものは、はたして存在するものであろうか。無は、存在するのであろうか。
 なんとまあおかしいじゃないの。無は、存在しないから、無なのであろう。無が存在したら、それは無ではないであろう。なんで死んですべてを無にするなんて芸当が、我々には可能なものであろうか。
 じっさい、こんな理屈は、考える必要すらないのである。在るものは在り、無いものは無いなんて理屈は、理屈ですらないのである。理屈以前のたんなる事実、犬が西向きゃ尾は東、みたいなもんである。なあんだ、というようなもんなのである。
 とはいえ、だいたいにおいて、当たり前なことほど人は気づかないものである。当たり前なことほど、難しい理屈に聞こえるものである。けれども、上のような理屈が、そんなふうに聞こえ、めんどくさくて死ぬ気がなくなったというのなら、それはそれで、無用の用というものであろう。

by 池田晶子


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2014/01/23 21:46
訪問感謝です U。・ェ・。U
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2014/01/23 15:55
池田晶子さんの?
うん、ごもっともだと思う。
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2014/01/18 10:39
こわい!!!
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2014/01/02 15:14
哲学上の疑問点ですが、事実存在と認識存在を一緒くたにして
論理展開されている点に強い違和感をおぼえます
引用もとの方は哲学ならっている方ですよね・・・?
前提となっている認識論があまりに古く、それこそカント以前のもので
また、老子の道徳経からでも簡単に批判できるように思います。。
別の項では神の超越性に言及するのに、
なぜ言語認識の限界性について議論しないのでしょうかね、、
結局エピクロスの有名な、我存する時死存せず、死存する時我存せず
という単語を繰り返しているだけで、いまさらそれに何の意味が・・・?
とつい思ってしまいます
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2013/12/16 16:25
思うに、「死んでしまおう」と考える人間が、「無」に拘っているわけではない事を理解しなければ、自殺の原因など理解できようはずもない。

死が目の前に有る人間に、そんな事を考えている余裕などないと思う。

池上さんは「無」や「存在」に拘っているようだが、それは裏を返せば、それだけ本人の自己愛が強いと言う事ではないだろうか?
人は愛されないと死んでしまう生き物である。かつて愛をもらえず亡くなっていった赤子たちのように。それはどんな小さなどんな種類の愛もしくは執着でも有るか無いかと言う事。アニメが好きだ、仕事が好きだ、気になる人がいる・・・
そう言う諸々の愛を持てなくなった時こそ、人は自分に引き金を下ろす瞬間を見つけ易くなると感じている。

その人を引きとめ受け止めてくれる「存在など既に無い」のだから。

何故こう言えるのかと言えば、誤解を招くことを承知で公言しよう。
私もまた同じ穴の中を経験しているからだと。
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2013/12/16 16:21
訪問ありがとうございました

批判的な内容コメで申し訳ないですが(-_-;)
私が思うに、「自殺しなくてはならないほどに追い詰められた経験があっての発言か」?
と思いました
どう言ったらいいのか、ちょっと悩むんですが・・・
そもそも自殺までに追い込まれると言う事は、まず周りはその人の事を入らぬ存在だ!と認めていることから始まると思うのです。
周りが自分を否定しているのに、そんな環境が一カ月二カ月半年一年と過ぎたら・・・
そんな中でどうやって自分を肯定し、必要な存在だ!などとおごった事が思えるのでしょうか?
よく「死にたい死にたい」と言っている人間は「絶対死なない」と言いますが
これはある意味では正しくあると思います。
「死にたい」と口にできると言う事は、まだ頼れる拠り所があると言う事。
それが例えネットの中だけであろうと、ゲームの中だけであろうと個人の空想の中であろうと同じ事です。
自殺した後「よく死にたいと口にしていた」等と周りが振り返るのであれば、それはそれだけ死んだ人間がSOSを発していた。と言う事であり、周りはそのSOSを無視し続けた、その存在を「お前なんていなくても同じだから、好きにすればいい」と否定し続けたと言う事です。
死んで楽になる保障など何処にもないと言いますが、死んでしまえばこの「目の前で存在を否定し続けられる」という現状からは抜けられ、楽になることができます。

逆に「死にたい」などと口にした事のない人がある日唐突に亡くなったとしたら。
それはそれだけその人が周りを信用しておらず、日々孤独とストレスを抱え続けていたと言う事。
それだけ周りはその人に関心などなく、やはり居てもいなくても分からない空気のような存在であると認めていると言う事

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2013/11/20 11:27
無にこだわっているが。
 第3者から見た場合は、無であるし結果、無でも本人は、ただその場から逃避したい一心ではないかと思う。
そう死ねば逃げられると思っているから…では?
 どんな場合も死を選ぶ以外の方法はないかと…そんな余裕があるならぜひ考えてほしいと思うが、衝動的だろう。
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2013/11/18 21:57
死んで逃げられると思うなよ、みないな言い回しは、実際多いですね。
洋の東西を問わず、死後の世界には、罪人を収容する地獄が想定され、
スピリチュアルでも、生前の自分と同じレベルの世界?空間?
とやらに行くと言われ、つまり、レベルの低い人、自殺をした人などは、
それに見合った世界に行くと言うことが言われています。
しかし、それもまた、「生きている」人間が言っているゴタクに過ぎず、
本当のところは宗教でもスピリチュアルでも分かっていません。
そこにあるのは、ただ単なる生者の決め付けです。

かと言って、では反対に死に救いがあるのかと言えば、
それはそれで上記と全く同じ理由で分かっていません。
お墓があることが池田さんは皆が死後を信じている証拠である、
と言うのは、私も賛同です。
墓は生者のためにある、と言うのは、そもそも人間が、
死後に故人が幸せでやっていてほしい、と言う希望的観測と、
生者の無念を一応取り除くため、と言う両方の機能を果たしていると考えています。

で、死んで楽になれるのか、と言えば、
生きる事がどれほどかは本人にしか分からないけど、
死後の世界がないと仮定すれば、
楽どころか何もないので、楽にはなれないけど、
では生きていれば無より楽なのか、と言えば、
それはまた違っているのではないか、と思います。
そもそも死後の世界がない、と仮定した世界では、
死んで楽になれるのか、と言う問いそのものが無意味です。
死は死、寿命も自殺も病気も怪我も、等しく死です。
そこには観念的なものがつけいる隙がありません。

個人的には、死後の世界は、死者の成仏と言う希望的観測に基づいた意見で
ある、と思いますが、
では、自殺者にその希望的観測を押し付け、
この世に縛り付ける必要が本当にあるのか、と言うと、
それは別です。
そこは感情的な論議になってしまいますが、
残された人達の気持ちと人生を考えれば出来ないのかも知れませんが、
では、残された人達の気持ちと人生のために、
本人の魂の汚れを加速させて良いものか、とも思います。
魂と言う観念については、まだ論じる舌を持ち合わせていないので、
ふわっと考えている、と言うに留めておきます。
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2013/11/18 17:30
訪問ありがとうございます^^
ステキな文章ですね^^

こんな立派なぶんしょうはどうやったらかけるのやら^^;
文才の無い私には到底無理ですw
チョッと尊敬しちゃいました^^
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2013/11/17 10:41
私は、毎日、起きた時主人に「また、今日も生きてたわ。」と、言います。
精一杯生きたから後悔が無いからです。
いつ、死んでも幸せだからいいのです。
自殺して死んだら「無」になるだけですが、周りの方々には、トラウマになるんでしょうね。
あ~すみません。これは、私の中の考えです。
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2013/11/17 01:30
あんまり、難しく考えない方が
生きづらいなら、逃げろ
戦えるのなら戦え
あなたが死んでも世界は続く
出来れば楽園ではないこの世界の続きを見ていて見たくはないか
世界を小さくとらえないで
学校や会社なんて世界の本当に一部
その一部の人間の関係や
金が無いと言うことなんかで
死なないで
多分なとかなる
なんともならないようで
何とかなるから
自分から死を選ぶ必要はないと思う
せっかく生を与えられたのだから
人間だって動物
光合成して生きられない
戦い奪い取らなければ生きられない
業の深い生物
どのレベルであれ戦いはさけられないよ
人間関係をさけて
電話線も引かずに山にこもり
畑耕して生きている人だっている
世界を見よう
自分の世界や
知っている窮屈な世界に閉じこもり
終わりを考えないで
続きを考えて



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