煙草が吸いたくなり、荻窪でコンビニに車を停めた。煙草の臭いが嫌いで、車の中で吸いたくなかった。珈琲を買って、店の外で煙草を吸っていると、女に声をかけられた。「送ってくれるかしら。」僕は怖くなり、車に乗り込んだ。エンジンをかけ、通りに出た。

　車の中が煙草臭い。バックミラーを見ると、後部座席で女が煙草を座っていた。ミラー越しに女と目が合うと「電子タバコが流行っているけど、煙が出ないと煙草じゃないわね」と話しかけてきた。僕は視線をはずし、遠くに見えるテールランプを追いかけるように、アクセルに足をかけた。

　「急がなくていいのよ。遅くまで開いている店だから。等々力まで行ってくれるかしら。不動尊がある世田谷の方よ」僕は、無言でうなずいた。１５分もあればつく距離だ。この女も浴衣を着ている、さっきの女と同じ藍染めの浴衣。顔は似ていないが、どことなしか似ている懐かしい雰囲気を醸し出している。

　等々力渓谷を渡ると、女が、角のビルに止めてと言った。閑静な住宅街にそぐわないスナックが何件か入った集合ビル。車を駐車場に止めた。シートに座ったまま、女が降りるのを待つと、あなたも来るのよと声をかけられた。

　集合ビルの中にある寿司屋に入った。午前2時を過ぎているのに賑わっている。スナックが引けた後の客かと思ったが、この時間に似合わない年配の客ばかりだ。久しぶりの再会を喜び、思い出話に花を咲かせている。

　カウンターに座ると楊枝が添えられたナスときゅうりの漬物が出された。女は、「夏だから、ウニとスズキとカンパチをもらおうかしら。それと、ビール」と職人に注文し、僕の方を見て、「あなたは、何にするの」と聞いた。「ウーロン茶でいいです」と答えると、女は、「そっ」とつまらなそうにつぶやくと、「この人にも同じもの」と勝手に注文をした。

　寿司に口に入れたとたん、ツンとワサギが鼻に抜け、そして、目まいに襲われた。喫茶店にスーツ姿の僕がいた。隣には上司の長野、向かいには市民税課の麻里子が座っていた。１０年前の鹿児島にいた頃の光景がよみがえる。

　「井ノ原君も篠原さんも、お互いに、どげな人か知っとんね」と長野は言いながら、僕と麻里子を交互に見みた。「いめじんじゃどよかにせどんと、よかおこじょでお似合いたい」と言って、そのまま話し続けた。数日前に、長野に居酒屋に誘われ、別れ間際に、付き合っている女性はいるのかと聞かれた。いないと答えると、心当たりがあると言っていた。

　僕は、東京の国立大学を卒業すると地元の市役所に入った。長野に麻里子を紹介されたのは、市役所に入って４年目、２５歳の時だった。麻里子は僕より４つ年上で、地元の短大を出て市役所に入り１０年になっていた。この後、麻里子と何度か食事に行き、そして何度か寝たが、麻里子と話すときは自然と敬語になった。

　喫茶店で３人で会った半年後、長野と麻里子が市役所を辞めた。二人の不倫の噂が広がっていた。僕は、二人のことに気づいていなかった。高校受験の失敗以来、他人にどう思われているのかが気になり、自分を守るために壁を設けて、他人の心に踏み込まないようにしていた。この半年、麻里子は僕と同時に長野と二人で会っていたはずだが、僕は気づくことができなかった。

　二人が辞めたあと、僕の噂も立ち始めた。「長野係長と篠原さんと井ノ原君は三角関係だったらしいな」と事実だった。最初は興味本位の噂が多かったが、時間を追うごとに、悪意が混じり、それも真実だった。
 

「井ノ原って、付き合い悪いよな。飲み会にも全然、顔を出さなし。人間関係分かってないよな」
「いい大学出て、なんで、うちの市役所に就職してんの。ここの生まれでもないし」
「篠原さん、長野係長と付き合ってたってのは分かるけど、井ノ原さんは以外よね。何考えているか分からないから、怖いわよね」

　長野は僕から見ても理想的な上司だった。田舎の市役所には珍しく、勉強熱心で、前例に拘ることもなかった。何より、人付き合いの悪い僕にも自然に接してくれた。麻里子を僕に紹介したのも、彼なりの責任の取り方だったのだろう。それが間違っていたとはしても。

　長野には、辞職したことへの同情や市役所にとっても痛手だという声の方が多く、その分だけ役所に残っている僕への風当たりが強くなった。そして、僕は市役所を辞めた。

　意識が戻ると、浴衣の女はいなくなっていた。お勘定を払おうすると、職人が、ご一緒の女性の方がお払いになられましたよと答えた。それと、お釣はお客さんに渡すようにと言われましたと言い、５千円余りのお釣を渡された。店を出ると、そこには、違う浴衣の女性が立っていた。