最強
- カテゴリ:日記
- 2018/02/06 21:08:40
男なら一度は夢見る「最強」
古臭いなんて今の人は笑うだろうか。
しかしながら、その野望は形を変えて
確かに存在する。
小学生のころ、
「成績では誰にも負けない」
「運動では誰にも負けない」
と考えるのが一番最初だろうか。
教育には詳しくないが、きっと重要なのは
その「1番になった能力」ではなく、
そう思った「意思」なのではないだろうか。
なぜか?
社会を経験した人ならわかるだろうが、
生き抜くためには理不尽なことすらも
受け入れなくてはならない時がある。
その時、一番必要なのが強力な「意思」
だと思う。
それはきっと一番になったことがあるという
「自信」だったり、最後までやり切ったという
「意志」だったりするのだろう。
社会ではそういった「意思」を持った
リーダーが求められているのかもしれない。
最強・・という言葉に憧れますね 相対的な強さじゃなくてね
そして 全て他者とのたたかいの結果ではなくて
最終的には自分とのたたかいなのかもしれないですね
偉くなればなるほど頭を垂れる稲穂の様に誇示しない生き方
我々が求める真に最強の人は・・残念ながら表には立とうとはしない。。
はがゆい気がしますけれど。。
読ませていただいて 自分なりにしか書けません
余り難しい事は考えたことがなくて・・
もし変なこと書いていたら 遠慮せずに言ってくださいね^^
様々な仕方で重要なのは言うまでもないですが、
この 「最強」や「一番」という価値もまた、他者抜きにはありえないものですね。
一つには、この価値が、他者との間での比較だ、という点。
クラスや社内や同業者や趣味サークルのメンバーの中で…他の誰よりも…という、同類他者との比較。
もう一つ、その価値判断が、他者の承認によって確保される、という点。
これは、友だちや仲間や教師や上司、あるいは観衆や一般他者…など様々ですが、
さらに、芸術や科学では、同時代の他者には理解を得られなくとも、
将来の ありうる他者が承認してくれる(だろう…、はず)といった、可能的他者の場合もある。
そもそも、価値の実現を目的とする意志は (論理的に考えれば)、
常に既に、「競合他者」と、「ありうべき他者=可能的他者」のどちらをも想定し、
その他者たちに勝ち、承認してくれる他者があることを想定する限りでしか、成り立たない。
そうした他者の中でも、最高位の他者が、神と呼ばれる他者ですね。
他方、ジャック・ラカンやスラヴォイ・ジジェクが言う
象徴界の支えとしての 「大文字の他者」とは、
以上のような意味で、私の意思や意思を、また認識や判断の妥当性を、
つまりは、真善美などの価値基準の準拠点を与え、判定してくれる、可能的他者のことでした。