個か組織か
- カテゴリ:日記
- 2018/02/07 00:17:07
生きていくうえで尊重されるのは個か組織か
難しい命題だと思う。
個なくして組織はないし、
逆に社会以外で生きていくことはできないし。
じゃあこう考えよう。
「無人島で生きていけるか」
これは人間的なコミュニケーションがなくても
生きていけるかどうかという問いである。
ほとんどの人は「無理」っていうと思う。
でも少数の人間は「大丈夫」っていうかも。
僕が何を言いたいかっていうと、
「社会一般的な幸せが、個人の幸せとは限らないんじゃないか」
ということです。
いい学校出て、いい会社に入って、結婚して、家族ができる。
これがきっと人生単位でみた社会一般的な幸せなんだろう。
しかし、彼・彼女には他の「夢」があったかもしれない。
どっちが幸せなのか?
それは分からない。
でもそれを決める自由は決して奪われてはならないと、
僕は思う。
もう少し言えば 生かされているだけで
幸せなのだと思います
生きていてこそ感じることができるすべてのこと
そんな幸せにありがとうと言いたいなぁ~
しあわせは自分が決める・・だね
どんな人生でも それはいつも自分が
選択してきた結果なんだもの
幸せに基準や定義はないし
わたし、思うんだ・・今の自分は 幸せもの・・って
決めちゃえばいいのだと・・そしていいなって思うこと
一杯書きだしてみたらいいと思うよ 自分が今
人としてどの辺に居るのか あとになってみると
よく分かるからね~決めちゃえばいいんだよ
わたし 本当に幸せ者だよ・・
最近そう思うようになった(^^)/
私の理想は社会の歯車になることでした。
どことどこに関係しているかもわからなくても、一つでも抜けたら、本来の作動をしなくなる。そういう意味での歯車です。
助け合っていく、とか協調性で何かを達成しようとかではないですが、歯車になることはかなり難しいことだと日々実感しています。個が時々はみだしてしまう。主張したいわけでも目立ちたいわけでもないのに、ふとした会話で、世界が違うような立場に置かれてしまう。外れものって言うんでしょうかね。
個人の幸せには妥協が必ず含まれていて、そこで初めて社会一般的な幸せのように感じて、安堵しているのではないでしょうか。
ちょっと今日はうまく言えませんでした。ごめんなさい。
で、サークルってどんなことされるんですか?
今日もいいお天気で幸せです。
今度の土曜日にお茶会があるようですが、
毎週土曜日午後は予定があり、残念ながら出席できませんが
又の機会に参加したいと思います。
たくさんの人がいるなら、ROMならぬLOMで参加できそうです♪
小学1年の時、怪我をして3か月ほど寝ていました。
最初の数日のことは覚えていないのですが、
後から聞いた話だと死んでいたかもしれなかったということでした。
子供の私は、自分が助かったのは、神や宇宙、運命と呼んでいいのかわかりませんが、
何者かが私を守ってくれたと感じたのです。
そして、30歳過ぎて、旅行先で1mくらいの側溝に転落したことがあります。
これも大怪我か、悪ければ死んでいたかもしれませんが、
奇跡的にたんこぶだけで済みました。
この時に、子供の時私を守ったものの存在に再び触れた気がしました。
似たようなことは、もう一度ありました。
そして、いつからか太陽というものに強く惹かれるようになりました。
当たり前のように毎日現れる太陽。
雲に隠れて見えなくても、そこに存在するもの。
太陽の光を浴びている時に、愛されているという感覚を強く感じます。
何も心配することは無いのだよ~というメッセージと共に。
「何者かに愛されている感覚」とは、大きなものに包み込まれていて
温かくて、安心している感じということになるでしょうか。
にしきのあきらの歌「空に太陽がある限り」が浮かんできました。
あかささんには、古すぎですね(笑)
私が無人島で生きていけるのも、太陽がある限りかも~
ふと思ったのですが、
幸せな人は自分が幸せかどうかなんて考えないんじゃないかと・・・
それから、あかささんの文にある、社会一般的な幸せを手に入れている人たちは、
幸せそうに見える人たちに過ぎないのではと・・
私が思う幸せは、やりたいことが見つかって、それに没頭している状態です。
それが家事であろうと仕事であろうと芸術活動であろう恋愛であろうと
何もしないことであろうとです。
正しく使っているか自信はないですが、思うところを書いてみますね。
「無人島で生きていけるか」
これについて、自分はどうだろうと考えてみましたが、
現実的には、ひ弱なので無人島での生活能力は無くたちまち命を落とすでしょう。
ただ、もしも生活面で問題がないと仮定したならば、多分生きていけると思います。
それは、私に特に優れたところがなくても、性格が悪いところがある完璧な人間でなくても、
存在することを許されている、何者かに愛されているという感覚を持っているせいかもしれません。
だからなのか、死ぬ理由が見つからない、よって生きようとするでしょう。
他人の世話を焼くのが好きな人がいますが、
その中には、他者の存在によって自分の存在価値を確認する人もいるように思います。
(自分がいなければその人が困ると思い込み、相互依存の状態になる)
そういう人は、無人島では生きていけないかも⁈
コミュニケーションにもいろいろあると思いますが、
無人島で、他者とコミュニケーションをとることができなくても、
過去のコミュニケーションの記憶が、自分を支えてくれると思います。
楽しい記憶は大事ですね。
又、自分⁈を相手に対話することも可能ですよね⁈
人を死に追い詰めるのは、孤立感のように思います。
目の前にたくさんの人がいるのに、だれともコミュニケーションをとれない・・
集団の中で感じる孤立感というのは、ひどくつらいことでしょう。
けれど、無人島でひとりきりは、当たり前のこととしてあきらめるしかないのですから。
無いものでなく在るものを見ることで、幸せに過ごすことさえできるかもしれません。
(サバイバル能力があるとして)、
何年もとなると、無気力になって生きられなくなる気がします
ちょっと話がずれますけど、やる夫サバイバル というのがあって
先月読んだのですが思わず感動してしまったのでした
いろいろありますね
さきほと あかささんの2つ前の記事 「最強」でこめんとした
私の認識や信念の支えとなる <他者> が 不可避に関わるでしょう。
これで 良いのだ 良かったのだ いやまだまだ…など、
幸不幸についても、その自己判断は、実在する他者に認められるかどうかとは別に、
私の内なる判断の準拠点となる他者に支えられて成立する。
で、詩蘭の場合は、「いい学校に行って、いい会社に入って…」という想定は、子供の頃からなかったんですw
内なる支えの他者(内なる神)が、ヘンテコだったw
おかげで、妙な密林探査の人生になってしまったのですが、
途中で 愛しのアイボ~ちゃんと出会えたり、
もっとも尊敬していた哲学者さんの最晩年の数年、共にお仕事させていただいたり、
といったこともあった。
そうした、実在する素敵な他者との出会いによって、
自分の 自由な意思もまた、変化し成長してきた。
自由意志もまた、実在他者や理念的他者との関係性においてしか育まれない…
そして、それゆえにこそ、その経験の場としての<この私>の絶対的特異性(シンギュラリティ)もまた
成り立つ と思われます。