静寂の『アウシュビッツ強制収容所』 PartⅠ
- カテゴリ:レジャー/旅行
- 2011/02/10 16:12:05
何人から言われたでしょう。
「2月の中央ヨーロッパの寒さは尋常じゃない!無謀だ」と。
確かにそうかも知れません。
でも、極寒のこの時期だからこそ訪れたかったのです。
かつて隙間風に悩まされ、身を寄せ合い励ましあい、
生への希望のともし火を胸に、一日千秋の思いで過ごしたという彼の地を・・・。
今回訪れた中央ヨーロッパの国々は、いずれも初めても所ばかり。
幾つになっても『初めて』はワクワクします。
何に心動かされるのか、感性に広がりをもたらしてくれるのか・・楽しみでなりません。
初上陸は、とりあえずザッと見て回ろうということで、実に7カ国に足を踏み入れました。
まずドイツから入りポーランドへ。そしてポーランドの次はチェコ、オーストリア。
ブラチスラバ(スロバキア)にも数時間立ち寄り、
同行した家族は、約30年振りに親友(スロバキア人)との再会を果たしました。
「これでいつ死んでもいい・・」と涙を流していましたっけ。
この後ブダペスト(ハンガリー)で2連泊してオランダ経由で帰国です。
今回KLMオランダ航空を利用したのですが、乗り継ぎ時間が5~6時間と超ロング。
実は冬場は、雪の状況や風向きで運行に遅れが出ることが頻繁だそうで、
夏場の予約のように2時間程度の(乗り継ぎ)時間では「危険」なのだそうです。
「まさか・・・」と思っていたのですが、帰国便は・・・・大幅に遅れました。
オランダの空港が濃霧と強風の為一時閉鎖され、
飛行機の中で待機すること一時間。
加えて着陸時になっても依然濃霧・強風で許可が下りず、上空を旋回待機。
通常ブダペスト~オランダ間は1時間強ですが、実に3時間以上を要して何とか着陸。
空港内(オランダ)での無意味な時間を回避しようと事前予約していた
『オランダ運河巡り』に、かろうじて間に合う・・・といった具合でした。
・・・・・かつてこれほど遅れが出た経験はなかっただけに、良い教訓になりました。
さて、前置きはこれくらいにして・・・。
今回の旅の最大の目的は、『アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所』訪問です。
アウシュビッツ博物館には、日本人ガイド(中谷剛氏・1997年4月~)が
一人だけいらっしゃいます。日本からアポを取り、ガイドをお願いしました。
現地に到着すると、余りにも観光客の姿が少なく驚きました。
実は、アウシュビッツ強制収容所が開放されたのが1945年1月27日。
私たちが訪れたのは2月1日だったのですが、連日式典が組まれていたのでした。
2月1日は、国連幹部及び40カ国の政府代表による、『犠牲者を想起し献花』。
『午前中、ビルケナウ強制収容所で式典が行われ、
午後からアウシュビッツ強制収容所で式典が行われる』
そんなアバウトな情報しか、もたらされていませんでした。
その上その日は個人での入場は一切禁止になり、
(ガイドの中谷氏が機転を利かせてくださり)たった一組いた
ドイツからのツアーの一員ということにして、無事施設入場ができたのです。
こうして、いよいよ入場です・・・。
入り口ゲートには有名な文字、 『 ARBEIT MACHT FREI 』(働けば自由になる)。
それをくぐるとそこは、・・・・静寂の世界が広がっていました。
28棟もの赤レンガ造りの建物が整然と並び、歩き固められた道はまっすぐ伸びている。
道の両側には、綺麗に剪定されたポプラの木々。
それはまるで「北海道にある赤レンガ造りの大学」を彷彿させ、
かつて65年ほど前、生き地獄の施設であることを、一瞬忘れさせました。
しかし、一つ一つの建物に足を踏み入れると、
2トン以上とも言われる無造作に積み上げられた女性の髪。
ガス室に送り込まれる直前、「これからシャワーだ!」と偽って脱衣させた
洋服・靴・めがね・義足・義手の山・山・山。
静まり返った施設内に、ガイドの中谷氏の小さな声だけが響きます。
「なぜ彼らがこんな目に遭わなくてはいけなかったのか。
なぜこの狂気を、身を挺して止める者がいなかったのか。
これは単なる過去の出来事ではありません。
近未来、我々日本人が直面する出来事かもしれないのです。
どうか今一度、この悲劇の意味を考えてみてください・・・。」
当時ドイツ人有識者の中には、この蛮行を非難する人も多数くいたそうです。
しかし、わが身に降りかかる「火の粉」を考えると、
声をあげ、行動に出る・・・は、誰も出来なかったと言います。
『対岸の火事』・・・直視しなければ、いつしか終わる。そんな具合に。
Part Ⅱにつづく
本当に仰るとおりです。
我々日本人にとって「ユダヤ人」の認識は薄く、
私個人に至っては「計算に強い民族で、アメリカの大富豪に多数いたわね」くらいです。
そういえば以前、メル・ギブソン(『パッション』監督)がパーティーの席で、
居合わせたウィノナ・ライダー(ユダヤ人)に暴言を吐いたとか。
国を違えば根強い偏見が残っているのだと思い知らされました。
ガイドの中谷氏は、日本の現在をとても憂いていらっしゃいました。
ヒットラーの暴走の時代背景は、混沌とした今の日本の状況に通じるものがあると力説されていました。
「若者は無気力。したいことも見つけられず、定職につかなくても何とかなると考えている。
どんどん貧しくなる日本。そんな時、必ず間違った英雄が現われるのです。
歴史がそれを物語っています。
だからこそ、豊かな人が声を上げなくてはいけないのです。
保身にまわることなく、『対岸の火事』と思うことなく・・・」。
日本を離れると、日本の窮状がより鮮明に見えてくると仰っていました。
寒かったですよ~。ポーランドは特別寒く感じましたね。
朝起きると一面の雪景色、そして霧氷でしたから。
クラクフといって、アウシュビッツから列車で一時間半ほどの古都を前日散策したのですが、
凍え死ぬかと真剣に思いました。
気温は-5℃程度だと思うのですが、突き刺すような(痛い)寒さなのです。
もちろん、カイロも持参しましたよ!
靴に敷くタイプと、もみもみして使うタイプ。
でも、余りに寒くて効果がないんです。
加えて『10時間持続』・・・これ、嘘です。3時間持ちませんでしたよ!
途中で足が千切れそうに痛くなり、しゃがみこんでしまいましたもの。私。
(おかげで帰国後の日本の寒さは・・・未だ暖房要らずです!)
準備万端!のつもりでしたが、冬のポーランドがこれほど厳しい寒さだとは思っても見ませんでした。
これをアウシュビッツ、これから書くビルケナウの収容者は薄い囚人服一枚で過ごしたかと思うと
いたたまれない気持ちでいっぱいになります。
飢えと寒さと高圧電線に囲まれた絶望的な状況下で、
よくぞ生き長らえた人がいるものだと、胸が締め付けられました。
そうですね。
現地ガイドの方も、ユダヤ人の定義は国によってかなり違うと言っていました。
ジュエリさんの仰るとおり、『ユダヤ教を信じている』これは
ユダヤ人の必要最低限の要素のようです。
他にも中央ヨーロッパ等では、『母親がユダヤ人ならその子どももユダヤ人』だそうで。
つまり、父親がユダヤ人か否かは関係がない。
でも、北アメリカだと『父親・母親いずれかがユダヤ人ならその子どももユダヤ人』で、
定義がゆるくなるようです。
他にも『〇代に渡ってユダヤ教信者etc』等々、説明されていました。
いずれにせよ「ヤオヨロズの神」を信じている私には複雑怪奇極まりなく、
宗教で人種が差別されること事態、理解不能に近かったです。
「神を信じる行為」は人の為ではなく、自らの心の平安の為だと思っていますから。
人種としてのユダヤ人じゃないみたい。
華僑も似てますね
外国で生きていくうえで 頼りになるのは お金と身内 というところ。
今イスラエルなどで指導者層となっているのは白人系のユダヤ人。
何故だかは知りませんが、とある時期からユダヤ教に集団改宗した民族の子孫たち。
元々のユダヤ人は聖書でアラブ人と枝分かれしていることでもわかるように有色人種です。
彼らの大半は歴史の中に消えているはず。
(日本人があるユダヤ部族の末裔という珍説すらあります。)
これほどの迫害がありながら後天的にユダヤ人としてあり続けたその意志の強さはどこから出てくるのでしょうね。
当時アメリカの富裕層にユダヤ人が多かったのは結果論でしょう。
ユダヤ人はヨーロッパで正業につくのは難しかったから、金貸しのような金融業で恨みを買いながらでも身を立てるしかなかった。
アメリカはヨーロッパほどユダヤ人に厳しくなかったから新天地を目指して移住する人が出るのも、金貸しなどで設けた資産を使ってウォール街で投資しようとするのも自然なこと。
アメリカは第一次世界大戦では被害がほとんどありませんでしたからなおのこと市場が大きくなったのかと。
(似たような状況だった日本でも当時成金が大勢いたそうですから。)
冷静に見ればドイツ皇帝は墓穴を掘ったということになるのでしょうけど、民衆はそんなことを承服はできないし、政府はそれをなんとかしなければならなかった。
それに応えたのがナチスだったからこそ、批判を受けながらもその勢力は伸張していった。
私達が教訓として得なければならないのは、
「独裁者は民衆の味方のふりをして出現する」
「平和を望むのであればあらゆる外交手段の行使を恐れてはならない」
ということです。
ナチスの暴走に対して初期の段階で列強が強力に干渉していれば後の悲劇はなかったはずです。
空想平和主義は時にこのような悲劇を招くということです。
狂気により国内の意思統一を図るのはよくあることですが。
ホロコーストは、恐るべしですが、果たして当時の背景で
止めることは可能だったのか・・・??
戦争、紛争の引き金は外交だけでなく
経済とも密接に関連しているように思えますね。
当時のドイツ経済は上記に記してある通りですからね。
やはり、寒さは尋常ではなかったのですね(^_^;)
ナポレオンの遠征を失敗させたのも寒さですし~~^^
Olivierさんの行動力に完敗ですぅ^^
つづき楽しみです!
この公称「ユダヤ人狩り」は内密に執り行なわれ・・・これは建前に過ぎません。
収容者にユダヤ人が圧倒的に多かったは間違いありませんが、
他にもポーランド人、ロマ(ジプシー)、ソ連軍捕虜。
数は少なくなりますが、フランス人・ドイツ人・オーストリア人・スロベニア人・ウクライナ人etcと
多数連行されガス室送りになっています。
「世紀の蛮行」の原因は、様々な説があります。
ナチスによる『人種的に純粋な社会の構築』。
そのためユダヤ・スラブ・ジプシーの絶滅計画もその一つです。
また、第一次世界大戦で莫大な負債を負ったドイツが、
1929年の世界恐慌による更なる財政難に直面し、
国内で噴出していた不満の矛先を、ユダヤ人に向けることで緩和説もあります。
(当時アメリカのウォール街で絶大な力を持っていたのがユダヤ人だったとか。
つまり、世界恐慌の引き金はユダヤ人によるものだと・・・何とも無茶苦茶な理論)
いずれにせよ当時ヨーロッパの近隣諸国は、この蛮行について少なからず知っていた・・・らしいです。
ただ各国も金融恐慌に飲み込まれ、街には失業者が溢れ暴動寸前、
政府は自国の財政の建て直しに躍起になっていたので、ナチスの蛮行は見て見ぬ振りだったようです。
その点をガイドの中谷氏は、非難していました。
ただ、ユダヤ人の受難はモーゼの出エジプトから始まり、キリストを殺した民族ということで、
長い長い受難の時を経ていることが今回改めて分かり、胸が痛くなりました。
関係者が大勢いたでしょうから話が漏れ聞こえるということはあったでしょうけど、ナチスにしても大々的に宣伝するということはなかっただろうと思いますが。
この狂気はナチスだけのものではないように思えます。
当時バチカンを含めた宗教的な黙認があったから、ナチスはユダヤ人を虐殺する心理的抵抗を軽減できたんではないかと。
前教皇がこの悲劇に対してコメントを出したことがあったように記憶しています。
宗教は人を救いもするが、狂気を生み出すことがある。
これは確かに日本にも当てはまる事象。
オウム事件は記憶に新しいですし、かつては一向一揆だの僧兵だのという宗教がらみの戦闘も数多くありましたからね。
キャセイパシフィック共々、私もKLMオランダ航空はお気に入りです。
数年前エアフランスと業務提携し、デルタ航空、アリタリア航空とも提携しています。
これでさらに利便性が高くなりました。
でも、提携先の再編等で・・・マイレージは、全く貯めていないのです。
これでは「もったいない!」ですね。これからは加算に励みます!
KLMは機内食が美味しいです!(エコノミー)
帰国便で出される和食(筑前煮&茶そば)はホテルオークラ(オランダ)の品です。
数年前から好んで乗っているのですが、試行錯誤を重ね、年々量&質が向上しているように思います。
「枕」も、夏に乗った際はペッタンコだったのですが、
今回は充分なふくらみがあり、気持ちよく(6時間も!)熟睡してしまいました。
今月末にイタリアへ行くのですが、今回はルフトハンザ航空。
こちらは初体験の航空会社です。
でも、『イヤー・オブ・ザ・エアー』に何度も輝いているので、期待しています。
中谷さんはこの時期オフシーズンで、ポーランドにおいでにならないことも多く、
今回ガイドをお頼みでき幸運でした。
NW/KLMのワールドパークスのマイルを貯めていましたから。
NWは最悪ですが、KLMのサービスは良かったですね。
アムステルダムで自転車に乗って巡る運河ツアーに参加したことがあります。
途中、パンケーキ屋で食べた昼食がうまかったです。
近未来に日本人が直面するというのは、あり得るかもしれませんね。
いや、現代においても、チベット、内モンゴル、ウィグルなんかで
似たようなことが行われてるかもしれません。
報道されないだけで。