Nicotto Town


Olivier


『ホタル帰る』(草思社文庫)~宮川三郎軍曹~

8月13日は朝から大忙し。
何せ夕方には、遠路はるばるお越しくださるお客さまがいるからです。
まずは大汗かきかき部屋の大掃除に、そして心尽くしのもてなし料理。
あっという間に時間は過ぎてゆきます。
こうして夕刻、玄関先で『迎え火』を焚いて無事お迎えしたのでした。

ほっと一息ついて新聞をくまなく読み直していると、
ある言葉が目に飛び込んできました。

ホタル館 富屋食堂(知覧)

直感しました。
かなり前にそのエピソードの断片を耳にし、
以来ずっとその全容が知りたいと切望していた実話のことだと。
これも何かの縁と思い、すぐに調べてみたのでした。

         (中略)

 『宮川三郎軍曹は昭和20年(1945年)5月中旬、
  特攻基地のある知覧の富屋食堂に姿を現しました。
  雪国・新潟生まれで、学生時代は成績優秀・運動神経抜群。
  加えて色白の美男子だったそうです。

 
  4月、軍曹は一度は特攻出撃したものの、機体の不調で止む無く帰還。
 
  長く、後ろめたさを抱いていたそうです。

 
  いよいよ宮川軍曹に出撃の命が下ります。
  運命の日は昭和20年6月6日、
  奇しくもその前日は宮川軍曹の20回目の誕生日でした。

  出撃前夜、特攻の母と呼ばれた鳥浜トメさんは心尽くしの手料理で
  宮川軍曹の誕生日を祝い、出撃のはなむけとしたそうです。
 
   
  富屋食堂の横には清流が流れ、初夏になると源氏ボタルが舞っていました。
  その姿に見入りながら軍曹は、
  「俺、心残りはなんにもないけど、死んだら小母ちゃんの所へ帰ってきたいな」
  「そうだ、ホタルだ!俺、このホタルになって帰って来るよ!
   ホタルが富屋の中に入ってきたら俺だから、追い払ったりしちゃダメだよ」

  宮川軍曹は腕の時計を見ながら、
  「9時だ。じゃあ明日の晩の今頃に帰ってくるから、中に入れるように
  店の正面の引き戸を少し開けておいてくれよ」
  「俺が帰ってきたらみんなで『同期の桜』を歌ってくれよ」

  「わかった、歌うからね・・・」

  「それじゃ、小母ちゃん、お元気で」

  「・・・・・・・・・・・・・・・」

  出撃の朝は雨でした。
  夕刻、トメさんが店を片付けていると、
  宮川軍曹とともに出撃した滝本伍長が入ってきました。

  その日二人は出撃したものの、雨で視界が悪く、
  沖縄までたどり着ける可能性は極めて低かったそうです。
  滝本伍長が再三引き返すよう促したが、宮川軍曹は
  「お前は帰れ。俺は行く」と身振りで伝えると、
  そのまま雲間に消えたのだという。

  夜になり、ラジオが9時を伝えニュースが流れ始めてすぐのこと。
  わずかに開いた表戸の隙間から、一匹の大きなホタルが舞い込んできました。

  トメさんの二人の娘さんはその光景にすぐに気づき、
  「おかあさ~ん、宮川さんだよ、宮川さんが帰ってきたわよ!」と叫んだのでした。

  食堂にはいつものように数人の兵士、無念の帰還をした滝本伍長もいました。
  そして皆、涙を流しながら『同期の桜』を合唱したそうです。

  こうして宮川軍曹は生前の約束を果たし、ホタルになって帰ってきたのでした。』
                                (参考文献:Katsuya大尉)
 

 ☆ 昭和16年(1941年)12月8日、太平洋戦争開戦。
 
    昭和20年(1945年)8月15日、3年8か月に及ぶ戦争終結 ☆

この実話には後日談もあり、併記しておきます。

特攻の母と呼ばれた鳥浜トメさんが亡くなったのは、
年号が平成に変わった4年。
その通夜での出来事。

ひっきりなしに訪れる弔問客も落ち着いた頃。
どこから飛んできたのか一匹の大きなホタルが、
光りながらトメさんの棺の置かれた部屋をす~っと横切っていくのを
何人もが目撃したそうです。

トメさんの亡くなったのは4月22日。
ホタルの舞う時期にはまだかなり早く、
「宮川さんが迎えに来てくれたんだね」と言い合ったそうです。

★     ★     ★     ★     ★     ★     ★


死後の魂の存在など、誰にも分かりません。

ただ、死んでしまったらすべてが消滅ではあまりにも空しい。

そう思うからこそ私にとってお盆は大切な行事。








 

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2013/04/05 21:54
nagataさま、コメントありがとうございます。

「明治村」は過去2~3回訪れたことがあるのですが、
ほんの子供のころであったり、仕事であったりと、
今一つ記憶に刻み込まれていなかったのです。
いつか楽しむために訪れたいと切望し続け、ようやく実現した次第です。

今回の主目的は『旧帝国ホテル中央玄関』。
これは名建築家フランク・ロイド・ライトの傑作の一つです。
異国情緒をかもしだす幾何学模様の組み合わせと、
凝りに凝った細部の建築センスに、思わず引き込まれてしまいました。

当初20棟ほどしか移築されていないと思っていたのが甘かったです。
何と60棟以上もの見ごたえのある歴史建造物が、
なだらかな山と大きな池を背景に絶妙なバランスで配置され、
現実社会から完全に隔離されたつくりになっていました。
さらに、各所に設置されている無料ガイドの知識も豊富かつ親切で、
感心することしきりでした。
結局、開村から閉村までいたにもかかわらず、2/3しか見学できず残念でした。

サラリと見どころを列記しますと、
・聖ヨハネ教会堂(重要文化財)
・西郷従道邸(重文)
・森鴎外・夏目漱石住宅
・呉服座(重文)
・品川燈台
・宇治山田郵便局
・京都市電、蒸気機関車12号(乗車可能)などなど

建造物はどれも凝ったつくりで、一見の価値ありです。
中には建物の中にまで上げてくれ、詳しい説明も聞くことができます。
どれもが「本物」なだけに、芸術家のnagataさんには十分楽しめる場所だと思います。
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2013/04/04 23:18
明治村は良さそうなところですね
私も一度は行ってみたい
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2012/08/25 00:57
たぬきの休息さま、コメントありがとうございます。

「いつか来た道」、本当にその通りですね。
人間は「(人類の)歴史」という最高の「教科書」があるにもかかわらず、性懲りもなく過ちを繰り返す。
大衆心理はそんな「危うさ」を多分にはらんでいることを、
今一度我々は肝に銘じておかなくてはなりませんね。

世界を見回せば、たった今も戦争は行われています。
戦火のもと、学校にも通えない子供たち。
それどころか今日一日生き延びるのに必死の毎日。
新聞・TV報道等でその惨状を目にしていても、(私にとって)どこかそれは絵空事のよう。
目にした一瞬は勿論心が痛み同情心もわきますが、例えば数時間後、
友人との楽しい語らいの輪に加わると、心の痛みが片隅に追いやられてしまう。
そんな自分に、無性に焦りを感じます。

『アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所』(ポーランド)を訪問した頃から、
過去の歴史を学ぶ重要性を再確認しました。
ほんの少しでも予備知識があると、「過ちは繰り返したくない」という感情が生まれます。
その概念が、その先の行動指針の候補から「過ち」を除く可能性があるからです。

初めての試みには不安がつきものです。
壁に突き当たれば、その都度熟考して前へ進みますが、
そこに「歴史」という教科書があれば良きガイドにもなり得ます。

過去から何を学ぶかは人それぞれですが、『無知は恥なり』でまずは知識を詰め込むこと。
それが最善の選択の第一歩のように思います。
例えいつかは大きな歴史の流れに飲み込まれようとも、「自分が今何をしているのか」
それを客観的に認識できていることは、多分に意味があると思います。

この秋~冬にかけ、知覧を訪問する計画を、今立てています。
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2012/08/24 11:51
集団心理ですね。
それがプラスに向けばよいのですがマイナスに働くと悪循環になる。
日本は戦前も戦後も同じ。
景気が良くて世界一だと思えれば怖いものなしだけど、不景気が長引くと「自分達はもうだめだ」みたいな。

戦後日本人は「なんで神国日本が負けたのか」犯人捜しをした。
それは現実としての敗戦とそれに関わっていた自分という存在から目をそらすという心理的安定を図るための行為だったのでしょうし、犯人を作ることで安定を図りたい占領軍の意向というのもあったでしょう。
かくして戦犯は作られ軍関係者は犯罪人であるかのように扱われた。
本当はそんな集団心理こそが戦争の引き金だったのにね。

怖いのは今現在も先の大戦前と同様の閉塞感が漂っているということ。
昭和大恐慌、大学生ですら就職できない状況、社会格差、近隣情勢の緊張、世界的な経済圏の囲い込み・・・
「いつか来た道」というのは本当はこういうことを言うのではなかろうかと。
これから先を「いつか来た道」にしないために何が必要なのか、空疎なキャッチフレーズではなく痛みを伴う議論が必要な時代が来ていると思います。
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2012/08/21 18:20
としさま、コメントありがとうございます。

としさんは死んではいけないヒトですよ!守るべき人たち(家族etc)がいますからね。
私が先に逝かせていただきます!

もっとも、当時もモチベーションはこうだったみたいですよ。
「お前が逝くならオレも!見事に散ってみせようぞ!」
戦争という特異な空間に身を置くと、あっという間に極論に至る。
そしてそれが正当化され正論になる。

70歳後半の親戚(終戦当時小学校高学年)に当時のことを聞いてみると、
「(かしこい)児童はみ~んな言ってた。日本が負けるってね。
それがある日先生に漏れ伝わってしまって酷い目にあった。
教壇の前に立たされてクラス全員から(先生の命令で)ビンタされた。
当時は恨んだね~、馬鹿な教師たちを」だそうで。
そういえばアメリカ留学の経験のある山本五十六元帥も、
当初から無謀な戦い・敗戦がわかっていたようですね。
「アメリカが本気になれば(資源・国力などの点で)かなうわけがない」って。

そんな中、死ぬためだけに出撃していく特攻隊員。
多くがリーダー気質の高い優秀な若者だったそうで、(日本の財産の消失で)悔やまれます。

「特攻隊員の戦後の悲劇」をご存知ですか?
戦後日本は急速に民主化の道をひた走るわけですが、
すると少しでも「軍国主義・帝国主義」のにおいのするものは忌み嫌ったそうです。
つまり「名誉の死」とされた特攻隊員の死も、その言葉を発すること自体タブー視されました。
特攻隊の生き残りの方々の末路は、悲惨の一言に尽きるそうです。
一族の誉れから、日本を焼け野原にした諸悪の根源一派と蔑まれたそうです。

知覧に平和記念館がありますが、その設立に携わったお二人も特攻隊員の生き残り。
終戦直後は「生き残った罪悪感と世の中の冷淡な視線」に耐え兼ね、自殺を考えたそうです。
それを富屋のトメさんに「あなたたちにはまだすべきことがあって生かされている」と諭され、
世の中から葬り去られようとしている特攻隊員の記録等の収拾に、残りの人生をかけたそうです。

不思議なのはこんな悲惨な戦争が行われたのが、たった67年ほど前ということ。
平和ボケした私には、こんなに見聞きしても未だ実感どころか絵空事に近い。・・それが悲しい。



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2012/08/21 00:25
こんばんわあ^^

ホタルに憂い・悲しみを感じるのか、勇ましさ・潔さを感じるのか
残された人達の感じ方次第なんでしょうね。。。
戦争は悲劇に語られがちですが、死を賭してまで大事なモノ・守るモノがあるっということも
大事なんだと思います。


私も死に対する恐怖は全くありませんよ。
ワシなら、Olivierさんより先に志願しますぅ^^
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2012/08/19 16:08
たぬきの休息さま、コメントありがとうございます。

たぬきの休息さんは「感知能力」の高い方です。
そんな方のコメントは、より深い気づき・学びに繋がり感謝致します。

この『ホタル』の話はかなり昔(10年以上前?)に耳にし、
「思いさえ深ければ、ヒトは現生に戻ってこられるんだ」と心震えた記憶があります。
『ホタル』の単語を見聞きするたびに、名も知らない特攻隊員に思いを巡らせていました。
でもナゼか、今日に至るまで調べるという作業をしていなかったのです。
「ホタル・知覧・特攻隊員」と入力したら、簡単にでネットで検索できる時代だというのに。

それが今回、新聞でたまたま読んだコラム中にこの言葉があり、
本文には宮川青年の内容は皆無だったのですが直感しました。
そしてすぐさま検索し、本まで発注した次第です。

個人的な話ですが、私は死に対する恐怖心がありません。
死にたいわけではありませんが、いつ死んでも構わないと思っています。
もしも集団の中で誰か一人が死ななくてはならないなら、私が志願します。
これは100%自発的行為です。
でもそこに少しでも「強制・義務」が入ったら、途端に嫌になるでしょう。
その自己本位な心情を、特攻隊員の心情に重ね思索していたのです。

『ホタル帰る』に登場する青年たちの中には、
宮川青年以外にも多数の優秀な方の実話が掲載されています。
(教養があればこの戦争の無謀さ・犬死には分かっていたことでしょう)

実の両親は息子の特攻隊入りを一族の「名誉」とし、弱音を許しませんでした。
もっとも本音では(生きて帰ってほしい)なのでしょうが、それはつまりは国辱者。
そんな本音を建前で塗り固めた特攻隊員も、
富屋食堂の鳥浜トメさんには本音を吐き甘えたそうです。

敵艦に急降下する瞬間、彼らの脳裏に浮かんだ映像が、幸せなものであって欲しいと願うばかりです。
宮川青年が「愛する人たちの待つ富屋に戻ろう・・」そう思って突入したように。

たぬきの休息さんの「黒い蝶」の話は興味深かったです。
利用者さんにとって一番心休まる場所だったのでしょうね。

そう言えば我が家でも、家族の親友の葬儀の直後から、
テレビのチャンネルがひとりでに1~4~10~1・・と変わる異常現象が起こりましたが、
4日目には嘘のようになくなりました。
親友がお礼に遊びに来たと話したものです。

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2012/08/19 13:06
この時期は報道も含めて戦争関係の取り扱いが増えますね。
(今年はオリンピックが予想外に盛り上がっていたのでいつもほどではありませんでしたが。)

私は知覧に行ったことがありませんが、行ってみたくもあり近寄りがたくも感じる場所のひとつです。
行ってみたいなぁと思うのは戦前と戦後の断絶を防ぐ手掛かりのひとつが知覧だろうと思うから。
近寄りがたく思えるのは、諦観・無念・憤り等々様々な感情が交錯したであるう場所は思いが強すぎるから。
修学旅行で長崎の資料館に行った時も原爆の時の臭いかと思うような何とも言えない匂いや強烈な思いが迫ってきて吐きそうになりましたから。

場所というのは「行こう」と感じるかも含めて出会いのものですね。
神社でも行きたいと思って近くも通ったことがあるのに行けてないところもあれば、何の支障もなくいけるところもあります。
今そこに呼ばれているかどうかっていうのもあるのかも。
そう考えると知覧はまだ時期ではないのかもしれません。

病気で他界した元利用者さんの初盆の頃に大きな黒い蝶々が施設に飛んできたことがあります。
職員や利用者さんに挨拶するように飛び回ってしばらく玄関先をフワフワと飛んでから去って行きました。
蛍ではありませんが、あれはその利用者さんなんだろうと話したものです。

それは本当に魂が乗り移ったのかもしれないし、残された私たちの思いが投影されただけかもしれません。
が、年に一度くらい故人に思いを致す日があっても、そしてその思いを何かに仮託することがあってもよいのではないでしょうか。
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2012/08/15 00:22
うさたさま、コメントありがとうございます。

知覧は、今最も訪れたい地の一つです。
余暇と資金さえあれば、何かを見たり訪れたりするのはいつでもできます。
ただそのタイミングがいかに重要か、最近とみに思うようになりました。
興味のない時にいくら見ても、それが心に沁み、生き続けることはないからです。

学生時代に広島を訪れたことがありますが、当時の感想はお恥ずかしながら
「ふ~ん・・」でしかなかったのです。
戦争は知識として学んではいましたが、まったく心に響いていなかったのでしょう。

何事も「初回」は大切です。
新鮮な感動であったり学びであったりと、心が最大に震えますからね。
(時には入念な準備を必要とすることもありますが)

ここ数年、「特攻隊員の手記」を読み漁っています。
戦争の目的は勝利にあります。つまり生(還)を前提に戦うわけです。
しかし特攻隊員にとって出撃は、死に直結します。
自殺願望者ならまだしも、未来に夢を託す若者が、命令一つで死ねるものでしょうか。
(多くは志願といいますが、実際はそうせざる得ない状況だったようです)

宮川青年は、将来を有望視された優秀かつ好青年だったといいます。
そんな青年が、「この世に何の未練もないけれど・・」と死に向かう時代。
理解しがたいだけに深く知りたくて、日増しに知覧に訪れたい思いが募ります。



我々は戦争を知りません。食べ物に困った記憶もありません。
だからこそ、この時代の苦難を映像・書物などで学んでも、
しかるべき時に接しないと心に沁みることはないのです。


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2012/08/14 20:04
知覧には2回行きました。
高校の修学旅行と、2年ほど前に。
修学旅行のときは、「ふーん」という感じでしたが、
2年前にいったときは、資料館の展示を見るのが
辛かったですね。
私自身は輪廻転生は信じていませんが、
自分の精神がなぜ自分の肉体に宿っているのかは、
不思議に思っています。
肉体が滅びれば精神も消滅するのだとは思いますが。
科学では解明できないなにかがあるのでしょうね。



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