『ARBEIT MAHT FREI』PartⅡ
- カテゴリ:レジャー/旅行
- 2011/02/11 17:30:24
『 ARBEIT MACHT FREI 』 (働けば自由になる)
アウシュビッツ強制収容所の入り口ゲートには、有名なこの文字が掲げられています。
第二次世界大戦中、ユダヤ人を筆頭に実に28民族、
公表140万人(実際は600万人以上)が命を奪われ煙と化した場所。
収容所は、さながら巨大な集合墓地。
敷地内では、ヘッドホンガイドを利用します。
ガイドの中谷氏の声が耳の奥に響きます。
「遺品をご覧になったら外に出てください。
そして突き当たり左手の建物の前にお越しください」。
指示された場所に歩を進めると・・・・そこは・・・・・・。
10号棟(囚人を使った人体実験棟)と11号棟(死のブロック)の間の細長い広場。
その先に、一見黒ずんだコンクリート製のついたて状の壁が目に入りました。
『死の壁』
ここで何人もの政治犯・ナチスに対する批判的態度の囚人が、
見せしめの為全裸にされ、銃殺されたのです。
その数は数千人にも上り、響き渡る悲鳴・連射音が、
脱走の意志を萎えさせる効果にも。
アウシュビッツ強制収容所は一般公開に際し、収容棟は全て博物館風に
内部を修理したそうです。
しかし、この『死の壁』と11号棟(死のブロック)は、
当時のままの状態で保存されているのです。
死の壁・・・そこには無数の花輪が手向けられていました。
コンクリートに見えた壁は、近くで見ると実は黒ずんだ繊維でできていました。
そして壁の裏側は丸太が敷き詰められています。
壁のあちこちにコイン大のくぼみがあり、そこには丸い石が埋め込まれていました。
穴の存在に耐えられなかったどなたかの配慮でしょうか。
その壁をじっと見ていると、涙が込み上げてきました。
情け容赦なくこの前に引き出し、全裸にし、銃弾を浴びせる。
その一連の行為は、「流れ作業」そのものだったそうです。
男性も女性も髪を刈り上げられ白地に水色の縞の囚人服。
ここでは名前は意味を持たず、囚人番号で認識された。
「どうせ殺すのだから」と、食事も家畜同様の扱い。
(註) 一日の食事
朝・・・コーヒーと称した茶色く濁った液体500cc
昼・・・腐った野菜少々が入ったほとんど水状のスープ1ℓ
夜・・・黒パン(300~350g)と3gのマーガリン、薬草の飲み物
埋め込まれた小石にそっと触れると・・・・、
「本当に、大変な目にあわれましたね・・・」。自然に言葉がもれていました。
そんな“平凡な言葉”では言い尽くせない、胸いっぱいに広がる悲しみでしたが。
深々と頭を下げ、その場を立ち去ろうとした時、
急にヘッドホンにザザ~とノイズが入ったのです。
接触不良だと、さほど気にも留めていませんでしたが、
ノイズが収まると、今度は耳の奥で「爆竹」が破裂したような乾いた音が響いたのです。
『パン、パン、パン・・・・パパパパパパパ~ン』といった具合に。
場所が場所(銃殺刑場)なだけに、
「ヘッドホンガイドの、音響効果かしら?」と思っていました。
でも、ガイドの中谷氏はすでに道の先に歩を進めています。
この空間にいるのは私と家族と一組の観光客だけ。
私 「いま、パンパンパン・・・って、銃の連射音しなかった?」
家族 「まったく」
私 「気のせいかな・・?」
すると今度ははっきりと・・・・・・・・・『パン、パン、パン・・・・パパパパパパ~ン』
私 「ほら、今音がしてるでしょ!
これルーマニアのチャウシェスク夫妻が銃殺された音と同じだよね!」
家族 「何も聞こえないよ」
そこにいたおふた方も首を横に振るばかり・・・・。
でも、私にははっきりと聞こえたのです。乾いた銃の連射音が・・・・二度。
ただ、恐怖心は全くありませんでした。
もしも何かの奇跡で今もあの場から離れられない魂と
チューナーが合ってしまったのなら、その瞬間の恐怖を伝えてくれたのなら、
私にとって貴重な体験ですから・・・。
いま一度視線の先にある壁に向かい、一礼し、その場を離れました。
道に出ると、ずっと先に中谷氏が待っていました。
急ぎその場に駆け寄ると、右手にはレンガ造りの小ぶりの建物。
その入り口を入った途端、眼前にガランとした細長い空間が広がっていました。
無言の中谷氏に導かれ、左手の小部屋に入ると・・・・そこには3台の焼却炉が。
ここが、悪名高き『ガス室』内部だったのです。
言葉を失い、改めて直方体型の空間に戻り、目を凝らし見つめました。
ほの暗い灯かりの中、壁には無数の引っかき傷らしき跡が白く浮かび上がっています。
「あ~、ここなのか・・・」。
息にも似た呟きが、口をついて吐き出されます。
チクロンB(ねずみ駆除剤)を通気口から送り込まれ、20分の悶絶の末絶命。
犠牲者の数は実に350人。それが毎日だったそうです。
その上遺骨は粉々にされ、肥料として畑にまかれ・・・・。
「人間は、こんなことまで出来る生き物なんです・・・」。
中谷氏が小さく呟きます。
Part Ⅲにつづく
確かに仰る通りです。
ただムバラク政権30年の下、抑圧されてきた勢力因子が多々あるようで。
虎視眈々とこの日の来るのを待っていた勢力、新たに結集される勢力等、混迷を極めるのでは。
大きな波が収まって(夢から醒めて)・・・単なる「宴の後」にならなければいいのですが。
それくらい“勢い”に乗じて、現政権を倒したとしか思えない今回の革命。
次なる指導者が扇動しての革命ならば、政権の建て直しも比較的速やかもしれませんが。
いずれにせよ依然エジプトは多くの問題(貧困・失業率の高さ・女性の地位etc)抱える国。
今後の動向に注目しています。追随する国がありそうなだけに。
既成の報道手段以外に国民個人が報道手段を見つけて情報を拡散・組織化できたと言う意味で。
逆に言えば既成のマスメディアの存在が問われているともいえるのですけど。
確かに「ムバラク後」を国民がどのくらい考えているかというと疑問符がつく部分があります。
ただ、イラク戦争とは違って、今後混乱が生じたとしてもそれは彼ら自身の選択に基づくもの。
明治維新の時も薩長は旧将軍家の新政権への介入を遮断しましたが、最初は財源等も含めて全くの手探り状態であったはず。
国民に気概があるなら道は拓けるでしょう。
アウシュビッツの虐殺から飛躍してしまい申し訳ないのですが・・・。
今回のチュニジア(ジャスミン革命)&エジプト(ホワイト革命)での混乱は、実に興味深かったです。
例えばエジプトは、本当に貧困にあえいでいました。
カイロ大学(最高学府)を卒業してもコネがなければ就職先はなし。
かろうじてパートタイムの非正規社員になれたとしても、一ヵ月の収入は1万円(日本円換算)ほど。
その内半分は家賃(平均5000円)に消える。貯金なんて夢のまた夢。
結婚する際は、最低10万円の預金を相手方の両親に求められるが貯められるはずもなく、
街には結婚したくてもできない30歳を優に超えた男性が暇を持て余してたむろしている。
「我々に未来はない・・・」と、以前エジプト人男性が言ってましたっけ。
ムバラク(前)大統領はじめ政府の政策には、多くのエジプト人が不満を抱いていました。
しかし秘密警察等の弾圧に恐れ、表立った抗議行動は極めて少ない状況でした。
それが今回は“インターネット”を通して「英雄」を生み、
変革を「正当化」させ、大きなうねりへと変えていった。
こうして30年にも及ぶ独裁体制に、一気にピリオドを打たせたのです。
小さな波紋が渦になり、波立ち、大きなうねりとなるさまを目の当たりにし、
「これが(大虐殺につながらず)平和的に終結してよかった」と思うばかりです。
もっとも、「ムバラク政権打倒の先」を考えているのかという不安は多大に残りますが。
実際、一定時期からは軍備増強したドイツ軍が強かったから抵抗できなかったというのもあるでしょうけど。
何かの問題に聖域を作ることはとても危険なことで、それについて議論すること自体をタブー化してしまう。
このような収容所ができる前からユダヤ人に対する差別政策は始まっていたのだから、それの非道について国内または周辺諸国から(あるいはバチカンから)もっと声があがっていたら状況は少しは変わっていたのかもしれない。
独裁者を独裁者にするのはいつも大衆なのですから。
ガイドの中谷氏曰く、
「虐殺もイジメも根っこの部分は同じ。ターゲットの数が変わるだけ」と仰っていました。
私も同感です。
アウシュビッツでの惨劇は、
『それまでに微かに芽生えていた「ユダヤ人に対する差別感情」が、
権力を持つ者(イジメで言うならリーダー格)の扇動で、あたかも
虐殺(イジメ)自体に正当性があるように思い込んでしまった末の蛮行』
このように専門家は分析しています。
一度「正当化」されると一気にその方向に傾く。
つまり「歯止めの効かない状態」になる・・・それが「人間の習性」だとも。
ですら虐殺行為にせよ、学校でのイジメにせよ、
行為が発覚し次第、早急に手立て(阻止)を講じなくてはならないのです。
「大きな波」になってしまったら、どんな手立ても飲み込まれ、効果が期待できないからです。