病室のギター
- カテゴリ:音楽
- 2010/09/19 14:17:52
中学一年の終わりに、蓄膿症の手術をした。
よく調べることもなく、医者が手術をした方が良いというので、唯々諾々とその言に従ったわけだ。
ところが、その医者はすさまじいヘボ医者で有名だったそうだ。
案の定、二度目の手術が終わって、3日目に手術したところにガーゼを忘れていたとかで無理矢理引きはがしたのだ。
軽く出血したが、収まったようなので病室に車椅子で戻り、トイレに行こうと立ち上がろうとしたときに血管が破れて、血が噴き出した。
麻酔も何もなく無理に傷口をこじ開け血管を薬で焼いて修復させようとしたが、時すでに遅く、血管の損傷はそんな程度のことでは収まらなく、口から目から鼻から耳から大量の血を流し続けた。
輸血も1800ccを超え、十時間すぎる頃には意識も遠のいて、時に心臓が停まったりしながら、口の奥と鼻の穴に鉄の玉を押し込んで、物理的に外へ血が流れないように処置をして、ようやく出血は小康を得た。
記憶はないが、当時買ってもらったばかりでようやくドレミファを弾ける程度になっていたギターを触りたいとかと夢中になっていた時に言ったのだそうだ。
次の日か、そのまた次の日だったのか、朦朧としたなかにそのギターは病室にあった。
家人の誰かが死んだときに可哀想だからと、そばに持ってきておいたらしいのだが、両親もだれも持ってきたと言うのはいなかった。
いつの間にか、そこにあった、というのだった。
そのヘボ医者は数人その病院でも殺したらしい。
その病院に来る前も殺していたらしいが、定かではない。
顔は出血のために紫色に腫れ上がり、看護婦たちも多くが死ぬだろうと思ったらしかった。
数人の看護婦にしっかりと抱きすくめられたのだけが記憶にある。
そのおかげで、元々病弱だった身体は、C型肝炎ほか、血液感染のあらゆる病気をもらって受験どころではない状況になった。
大学受験の勉強を始めた高二の夏には医者から受験禁止とまで言われた。
だから、受験の能力的には高一のレベルまでも到達していたかどうかさえ怪しい。
仕方がなく、志望していた生物系への進学を断念し、言われるままにとある私大へと受験をした。
ある教科などは九〇分の試験なのに一〇分で書き終えて、一五分後には見直して試験会場から外へ出た。
満点を取った自信はあったが、ほかから見たら断念したと思われたようだ。
そのようないきさつで入った大学は、見る者すべてが馬鹿に思われて、実際話をしても議論になるような相手もいなかった。
勉強はもうしたくなかった。
自分は気が狂ったとさえ思うほど遊び回った。
死への恐怖もあった。
浴びるほど酒を飲み続けた。
ある種の危険な雰囲気に呑まれてか、街を酔ってあるいていても、必ず数人の女性がついてきたりした。
それでも、サークルでは少しまじめにやった。
二つ三つのサークルを経て、いや潰してといった方が良いかもしれないが、軽音楽部の部長として迎えられた。
それほど楽器は上手ではなかった。
壊れたコントラバスが部室に放り出されていて、まるで自分のようだと思った。
それまで一度も弾いたことのない楽器だったがコントラバスを弾くことにして、それを直して使った。
部長になってから、飛躍的に部員は増えた。
それまで三つくらいのバンドで一〇名ほどだったのが、四〇名を超す大所帯になったのではなかっただろうか。
最初はおきまりのフォークソングから入って、一年すぎる頃にはトリオでボサノバ系統のジャズを弾いた。
あの病室のギターは何だったのか?
出席日数不足で、平均点83点くらいのまま、大学を退学した。
酒の匂いを消すのにそれから2年かかっった。
論文ばかり書いていて知識はあるのに手技がクソだって教授まらすはいーーっぱいいる。
Opeは執刀医・第一助手・第二助手の3人の医者がいるのが常識。あとはポンプマンとか麻酔科医だ。
あー耳鼻科はうちの近くなんか行かないから。あんたんちの近くに行くから安心しるw
ふりじゃなくてほんとーに貧血良く起こしたねんっ
さすがに学生運動はなかったけど、まだ安田講堂の焼けた後は痛々しかったよ。
そうか・・・クランプの歴史まで考えなかった・・・だがしかーし!似たような事はやった筈だよ。
素人が考えてもわかるじゃーん。
血液がどくどく流れている血管の三重膜を縫合するなんて・・・腕が良くても難しい。
外膜や中膜はともなく内膜はおいらにゃ無理だ。
血管鉗子っていつからあるのかなあ。。。ありす鉗子って言うのもあるんだよw
前にも言った記憶があるけど、その耳鼻咽喉科医はあなたんちのそばで開業しているから…(爆)
ご挨拶を聞いているのが面倒になって、貧血を起こしたふりして運ばれたのが安田講堂の地下の保健室かい?
あなたが東大にいた頃と、学生運動やっていた連中が立てこもったのじゃ、20年以上の時代が経っているからなあ。
ちなみに、あなたが医学部にいたところから俺の手術ミスされた時まで30年近い時代をさかのぼって、まだあなたは生まれていなかった頃の話だから、医療技術がどの程度まで落ちているのか疑問だ。
クランプするということはふつうの技術になっていたんだろうか?
1800CCは死ぬほど驚く量でないにしても、クランプしてたら絶対ありえない数字だよ。
つーか、出血したまま焼けるわけねーじゃん。
焼けない場合は血管縛るよ。普通は。
ああ、そうか!そんな研修医でも出来る事が出来ないからやぶなのか!
納得だああああ(笑)
あっそうだ。やすちか焼いたやつ生きてたら殺す(笑)
すげー世話になったんだ(爆
安田講堂の地下には保健室のようなものがあるんだ!
貧血で何度も運ばれたんだあああああああ(笑)
当事者になってみなければあの奈落の底へ落ちていく感覚は理解できないでしょう。
ストレッチャーに身体全体をベルトで固定されて、手術室に運ばれていくときには、文字通り地獄へ堕ちていくという、上下左右が理解できなく、足下へ吸い込まれていく感覚を味わいました。
大学入学当時ね、従兄弟が東大の医学部で講師をしていて、そこの伯母に「おまえが親戚中で一番馬鹿な専門学校に入ったと思え」と…。
悔しいなんてものじゃなかったですね。
輸血で病気いっぱいもらっちゃったんですね。
私はるもりゅうさんとは逆で
ダメ元で受けた大学に合格してしまい
4年間コンプレックスとの戦いで
3年生までは短大にしておけばよかったと
後悔してました。
結局、全然関係ない仕事ばかりしてて
あの苦しい4年間がなんだったのか謎ですが
唯一残ったのは年に1度会うだけの友達かな…
デモの反対側を歩いていたら、警官から捕まれて棒で殴られたことがあるくらいです。
2年ほど前に亡くなった4歳上の幼なじみがいましたが、彼の頃がもっとも激しかったと思います。
安田講堂とかの当事者の一人でした。
今になって思うと、安保闘争とはある種の正しい方向の抗議行動だったように今でも思いますが、ほとんどそのために行動をしてこなかったノンポリ(これも死語ですが)に近い自分に、ものを言うべき資格すらないのではないかと感じるのは、残念ではあります。
私も受けた大学の試験は高校の入試より簡単ですたwww
30分以降は退室可だったので私も早々出ました。
入学してからは部活と麻雀ばかりやってましたwww
るもりゅうさんの頃は学生運動が一番激しかった頃でしょうか?
私の時もよくキャンパスでゲバルトローザ(今や死語)が演説してました。