【何かが生きる為のサイクル】
- カテゴリ:人生
- 2013/11/04 00:35:05
私の高校時代の話です。
先生がこんな事を生徒に質問しました。
「魚とか肉とか食べるという事は、その生き物に死んで貰う事になるけど、相手の生命を奪う事なく自分の生命を維持できる方法って何かある?」…という問いかけでした。
誰かが「野菜を食べれば良い!」と言う意見を出ましたが、野菜も植物として生き物だからダメと言う事になりました。
すると、今度は「カップラーメンを食べれば良い!」と言いましたが、原料のほとんどが、以前は生き物であったためこれも却下となりました。
その他、サプリなどの薬品的なものも候補として上がりましたは、結局、元をただすと植物由来か動物性由来のものと言う事で却下となりました。
野菜も植物として生き物。。。と言う部分が厳しい条件だと思います。
しかし、野菜も確かに生きてると言えば、生き物ですよね。
サボテンにバイオリンを聞かせると花を咲かせるとか、花畑を荒らした人が花畑に近づくと花が凄い電気信号を出す事が実験で明らかになっているとか聞いた事があります。
そんな感じで、結局、答えは出ませんでした。
そこで先生は「だから、生きている事に感謝しなくてはいけないのでは?。。。」とここでも問いかけてきました。。。
確かに何かの「死」の上に成り立っている「自分の生命」と考えれば、本当にありがたい事だと思います。
余談ですが、食事の時の「頂きます」は、頂点の物(生命)を貰います、有難うございます。。。と言う意味なんだそうですね。。。。
今日、私は干し柿を食べたのですが「木からもぎ取られる時、痛かったかな?。。」なんて少し感謝しながら「ガブリ」と食べました。。。
「愛しているよ」と、いるかも答えました。
ふたりは、しばらくじっと、見つめ合いました。
「さようなら」と、小さな魚が言いました。
いるかは、泣きながら、愛する魚をぱくんと食べました。不思議なことに、やせ細り力のなくなった体がみるみる生き返りました。
いるかは、自分の体の中に愛する魚がいることを感じました。
それでも、いるかは、他のさかなを食べるたびに、悲しく苦しくなりました。でも、このまま何も食べないと死んでしまいます。いるかは、とても辛かったのですが、心の中で「ごめんなさい」と謝りながら食べました。
いるかは心の中で愛する魚に話かけました。
「どうして、こんなふうに、命を奪わないと生きていけないのだろう」
もちろん、愛する魚は死んでしまったので返事はありません。
そうやって、いるかは年老いていきました。いるかがその命を終えようとしてるのを、神様がご覧になっていました。
神様は言いました。
「いるかよ、いるか。もう何も食べないで生きていけるように、お前は星におなり」
いるかは、その神様の声を聞きました。うれしくてうれしくてたまりませんでした。
そうした喜びのなかで、いるかは死にました。
神様は言葉のとおり、いるかを星になさいました。小さな星でした。
ちいさな星に生まれ変わった、いるかに不思議なことが起こりました。小さな星のまわりには、たくさんの惑星があったのですが、そのうちの三番目の惑星に命が生まれてきたのです。いるかは、それが愛する魚の生まれ変わりであることを知っていました。
いるかは言いました。
「愛しているよ」
魚も答えました。
「愛しているわ」
☆彡 著作権フリーの童話です。嬉しくなって、コピーしてしまいましたが
場所を取りすぎてますので、削除していただいても、かまいません。
星野冴子(ほしの さえこ)
一匹のいるかがおりました。
ある時、いるかは恋をしました。小さな魚でした。
魚は、とても優しい心をもっていました。
いるかは、魚のそばにいると幸せでした。
ふたりで海のなかを泳いで、いろいろな話をしました。
楽しくて楽しくてしかたありませんでした。
いるかは、すっかり魚に夢中になりました。
あんまりにも恋に夢中になるあまり、いるかは食べることを忘れてしまいました。
というよりは、何も食べられなくなってしまったのです。
いままでは、たくさんの魚をお腹いっぱい食べてきたのですが、小さな魚に恋するあまり、食べることが、つらくなってしまったのです。
いるかは思いました。
「ああ、ぼくは、こんなにたくさんの命を食べてきたのだな」と。
小さな魚は、いるかが何も食べていないのを知っていました。
仲間と一緒にいることも忘れ、自分のそばにいることも知っていました。
小さな魚は、このままだと、いるかは死ぬだろうと思いました。
小さな魚は、優しい、いるかのことを、とても愛していました。
「いるかさん、このままだと、あなたは死んでしまいます。どうか、わたしを食べてください」
「そんなことは絶対にできない。それに君だって何も食べていない」
と、いるかは答えました。
「わたしは、いつも食べているわ。あなたの目には見えないような、さんごの卵や、その他の小さなものを」
いるかはとても驚きました。自分の目にみえていないものが、この小さな魚の命をささえていることを、初めて知ったのです。
「わたしは、いるかさんに食べてもらいたいの。なぜなら、わたしのような小さな魚は、やがて誰かに食べられる運命だから。それなら、わたしは一番好きな人に食べてもらって、その人の体のなかで、永遠になりたい」
いるかは泣きました。このままだと自分は死んでしまいます。そうすると、この小さな魚を守るものは誰もいません。自分が死ねば、愛する魚は他の大きな魚や、自分と同じような、いるかの仲間に食べられてしまうでしょう。もう何日も何日も、食べていないので、いるかの体は限界でした。
「わかった」と、いるかは言いました。
叔父がフレンチのチーフをしていたのですが、
その仕事の中で一番辛かった事を聞いた事があります。
答えは、やはり…生き物の命を自らの手で奪う事。
鳥だと生きたまま頭を切断されて熱湯に入れられます。
(※熱湯に入れるのは羽を取りやすくする為)
フレンチ以外にもこう言った調理方をする店が多いです。
辛いですね…それが仕事だと考えると、尚更辛いです。
読み返して見ると…死刑執行の記事と似ていますね。
今の時代では忘れがちな事ですね~^^
早とちりな私、反省です。
園長の幼稚園に行ってましたが、クリスチャンではなくて浄土真宗の門徒です。
でも、キリスト教の考え方もいいなぁ、と時々思う時があります。
たとえば、この話題。生き物の命を奪うことだから食べてはいけない、
そういう厳格主義があったとした場合など。他の命を犠牲にして生きている、
そうやってしか生きられない。そういう【原罪】をいつも自覚して、
うぬぼれや高慢に注意しながら、丁寧に自分の命を全うする、義務があると。
弱い命を捕食している原罪って、人ならみんな免れようないわけですから。
それを自覚して、自分の使命に誠実に生きるのと、人を殺める以外なら
何やってもかまわないと増長するのとでは、やっぱり生き方が違ってくる。
気になるのは、心のいちばん奥底に宗教のセーフティネットを持つ集団と、
ニホンのように冠婚葬祭以外はまったく信仰心のない集団とでは、
心理学が扱わなければならない範囲も、そうとう違うだろうなぁ、、と。
牛さん、ありがとう。
今度牛に生まれ変わったら、食べてもいいよ、人間さん。
やさしい方なんですね^^
人も物も自分に関わるものすべてに感謝の気持ちを持ちたいですね