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醤(ひしお)


米は、江戸時代前期までは蒸した強飯(こわめし)と粥(かゆ)という二つの方法で食してきた。
強飯を干して(乾飯-ほしいい)持ち歩き、水やお湯などで戻して、あるいはそのまま口に含んで食べるという携行食として用いられることもあった。
それ以前には、焼いたり、あるいは粉にしたものを練って団子状にしてというのもなくはないが、米は上等食で、一般には雑穀が多く、また強飯も粥も他の雑穀で増量させて食すことは普通に行われていたと推察される。
現在のようなご飯として食べられるようになったのは、江戸時代中期あたりからだと考えて良い。

米はひとまず離れて、調味料はどうだったか。
最古の調味料は日本に於いても塩であった。
塩によって腐敗が遅くなることは知られていただろう。
従って、簡便な塩水である海水に浸けると言うことは、人類の誕生から行われていたのではなかったのか。
塩分が濃くなり、あるいは天然の岩塩などを見つけるに至って、肉・魚・植物などの保存と同時にそれらのうまみ成分が溶け出して塩分と組み合わさってできたものが醤(ひしお)となった。
後にそれは、麹の働きでより簡単に作られるようになった。
中国よりもたらされたもので、中国では「じゃん」と言う読みである。
肉醤、魚醤、草醤、穀醤とそれぞれ材料が頭についてわかりやすい。
中国での製造が始まったのは紀元前8世紀。
日本では専門の醤を扱う「主醤」という官職が701年の大宝律令によって示されている。

特に大豆からできた醤油は元々は醤は液体であり、その液体に分離する前という意味で「未醤」が用いられたとされる。
それがそのまま「味噌」として名称とも残ったのである。
余談だがひしおの和名は903年の「和名抄」に「比之保(ひしほ)」とあるとされるが、原本で確認はしていない。
万葉仮名に見るよう、この時代は中国等の外国から渡来したものに当て字を和名とすることが行われており、それまでの調味料である塩を意味する「干塩」だっただろうか、「日塩」、「非塩」、いずれもそれなりの根拠となりそうだが、納得できる確定した説には出会っていない。


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2009/09/12 18:13
たまり(味噌を造るときにできる溜まり-液体を言う)を使っただろうと思います。
別に上澄みを特にすくってと言うのではないと思うのですがどうでしょうか。
もっとも、味噌を造るときに漉して、固形物である味噌と液体の溜まりを分けるのですから、戦国時代は精製が行われずに普段に味噌の上澄みを使用したのだと言うなら、それはあるかもしれません。

味噌を造る工程を考えると、うまみ成分がよく混じり合うように、かき混ぜたりしているので、上澄みだけだとあまりおいしくはなかったでしょうね。
塩も高価だったでしょうから、その塩を使っているので、代わりといえばそうかもしれませんが。
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2009/09/12 16:59
先日、テレビの黄金伝説で、戦国時代の生活を体験していました。
その時に、味噌を作る時の上澄みを調味料にして、味付けをしていました。
それと同じでしょうかね・・・



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