聖夜-きよしこのよる
- カテゴリ:日記
- 2009/12/25 02:45:23
クリスマスというのはキリストのミサという意味だそうである。
若いときに死にかけたことがあって、若くして死を迎えるのだという強迫観念にさいなまれて生きてきた。
気がついてみると、幼なじみ達はもうすでにほとんどが冥界の徒となって、腹を割って話すことのできる相手はもう誰もいなくなってしまった。
いたずらに生き長らえたとの思いが無いわけでもない。
いささか狭量のきらいのある性格故、人の好き嫌いが激しい。
相容れることのできぬことで、袂を分かつようなこともあって、生来の人懐こい面はだいぶ薄れてしまった。
話は前後するが、若い頃にはバプテスト派の浸礼(しんれい)を受けたキリスト者であった。
命を考えたときに、寺に参禅し、キリスト教を訪ね、宗教の中をさまよって、救いを求め続けたときだった。
そのままだと、酒が飲めないのでキリスト者を辞めた。(^^;)
というのも、幾分かの本音ではあるが、実は教会の中の人願関係のどろどろに直面して、結果的にがっかりしてしまったとも言える。
当初数人の聖書購読サークルに入ったが、リーダーになった頃には数十人という大所帯となっていた。
宣教師家族は非常によいアメリカ人だった。
しかし、上層部にいた取り澄ました偽善者に腹を立てることがあって、自分が抜けたことで、教会がバラバラと歯抜けになるのはわかっていても、許せなかったのだ。
教えていた小中学生達には気の毒なことをしたが、どうにも我慢がならなかった。
ということで、キリスト教のいくつかの教団を渡り歩いたこともあったりで、多少の縁はあるだろう。
クリスマスに…。
キリストの生誕祭である。
キリストの肉であるパンを食べ、キリストの血であるワインを飲んで、父なる神と精霊と、人間の原罪を背負って十字架にかかり、復活したとされるキリストの三位一体の神を受け入れる儀式、その最重要な日がクリスマスというわけだ。
キリスト教は宗派にも依るが、穏やかな宗教では決してない。
どちらかと言えば非常に攻撃的な宗教で、原始キリスト教から近代までの歴史は戦いの血で塗られていると言って過言ではない。
異端や他の宗教を信ずる者を皆殺しにしてでも、キリスト教を中心としようとする。
誤解を受けることを怖れずに言うなら、世界中の大きな争いのほとんどの原因はキリスト教にあると言ってもよい。
しかし、ただ一日だけキリスト教徒がおとなしく神の前で祈りを捧げる日、これがクリスマスと、言ってよいだろうか?
ちゃかすのも、あるいは幸せな気分で過ごすのも、それそれ各人の自由なことだ。
ならば、改めて自分の命を大切に考えることで、それぞれの幸せを祈る、世界中がそのような日であって欲しいと願うのだ。
クリスマス--キリストのミサではなく、世界の平和を象徴する日になって欲しいものである。




























どうでしょう?
何度も死にかけて、さまざまな経験をしましたが、死後の世界はまだマシに思えますよ。
それとね、輪廻転生が現実にあると思うのですよ。
地獄があればあったように、生まれ変わるならそのように、いずれもどうであったとしても良いことです。
おそらく、あなたが想像するよりははるかに凄惨な経験をしてきたと思うし、あなたが聞いたならどうにもならないくらいのショックを受けるような現実を見ているのですよ。
ご心配ありがとう。
人を殺したいほど憎んでも、幸せな日々は送れるのでしょうか?
まあ、私も以前は、そのくらい嫌いな人間もおりましたが・・
願いが叶って遠くへ去って行きました・・w
しかし・・・本当の地獄とは?この世の地獄以上のものではないのでしょうか・・・?
想像を絶すると思います。
この世では、たとえ病気になったり、辛いことがあったとしても、人間はそこから這いあがったり、それによって得るものがあったり、人の愛がわかったりと言うことが考えられますが・・
真の地獄は、まるで広島に原爆が落ちた時のような凄まじい光景かも知れません。体中が痛い、熱い、苦しいのに増して人間の醜さ、憎悪がごった返しているような気がします・・と勝手に想像していますが・・・
るもりゅうさんも、これからどんな転機が訪れるとも、何が起こるとも明日のことは誰もわかりません。
人間万事塞翁が馬です!(^O^)/
そんな地獄を望んでは、いけません!
信じるとことと、それを通すことの難しさは確かにあります。
人間の原罪のひとつは疑いであるし、機械的にこの位置がどうだと決めるわけにも行かない。
死んでからわかる。
その通りですね。
で、神の前に立つかどうかと言うのを別にしても、言葉はおかしいですが、自分自身では地獄願望がある。
この世で味わった地獄のような日々を顧みて、それ以上の地獄に行ったとしても、どれほどのものだろうかとさえ思うのです。
あまりに多くの経験をしすぎたようです。
家族がなく、自分を止めることの諸々がなければ、殺したいような人願は少なくても5人以上はいます。
家族や子供の将来や、家系を考えるために止めているようなものです。
どうして天国を望みましょう?
望むのはそのような悪党の死なのですから、自分の天国行きなど望むことではありません。
ところで、霊写真は誰でも撮れるというのが最近の私の主張です。
キリスト教だろうが仏教だろうが、いや宗教に関わらずに、いるものを写すことは可能だと思うのです。
事故現場らしきところで、子供の霊を見たり・・
るもりゅうさんほどの凄いものはありませんが・・
教会に行こうと決めたその前日、知り合いの家に泊まったのですが、夜中にドアのところにモクモクとたちこめる白い煙の柱を見ました。
友人が言うには、私はその時、寝言で「般若心経」を唱えていたのが聞こえたそうです。
以前は、お経などにも興味があり、般若心経は覚えていたからです。
これが最後に唱えたお経となりました。
洗礼を受けたその日の夢に、お坊さんが出て来て首を絞め、仏像の描いてある絵を買えと強要しました。
そして寺の様な所に手招きしました。
夢の中でしたが、拒否して買いませんでした。w
私は、以前友人宅で見た煙の柱は、神だったと今も信じていますが実際のところはわかりません。
目に見えるもので判断するのは危険だからです。
悪魔も神と同じくらいの力は持っているのですから、何が真実か?霊の存在とは?正しく見分けをつけるのは難しいでしょう。
神が本当にいるかいないかは、死んでみないことには誰にもわからないと思います。
もし、いなかったらそれはそれです!
ただ、もしそこに神がおられた時、申し開きができるようにと思います。
私が先に死んだとしても、戻って来て真実を教えることはできないでしょうから・・難しいところです。
たとえ教えたとしても、人間は信じないでしょう・・それが人間です(^o^)丿
キリストでさえあの様になったのですから。
これは、自分が死んでみないことには、明らかにはならないことです。
信じると言うことは、難しいことだと思います。
私自身は、立場としては仏教徒だと思います。
ほとんど墓詣ではしませんが、それでも葬式などは仏式です。
哲学的な意味で仏式のほうが合っているのだと思うのです。
死んだなら、鳥葬とかのようなカラスについばまれて身体が自然に同化するのが良いなと思ってさえいます。
これは、葬というありかたに疑問を感じるためです。
どちらにしても、累代の墓碑銘にいずれは名が刻まれるのでしょう。
人間をどのように受け止めるかと言うことは、それぞれ生き方のスタンス--立ち位置--とでも言った部分に左右されるでしょう。
神様に連れ戻されること/人もいるでしょうし、大きな啓示を受ける人もいるでしょう。
言葉が変ですが、私は霊の存在がわかるときがあり、幾多の写真を撮ってきました。
そのほとんどが仏式の墓と関係があったのです。
写真を撮ってくれと無数の霊たちが集まってきて、写真に写るのです。
その写真の数枚は新聞などにも載ったりしました。
教会にいたときに自動筆記の事例を見聞きしたことがあります。
宗教は、どのような奇跡的なことに遭遇するかで、対するものが変わる。
それは、神に呼ばれると言うことでもあるでしょうし、私のように霊に導かれるまま、悟りというものの本質がうっすらとわかってきている人もいることでしょう。
そう、あなたがおっしゃるように人がその努力をできるかどうか、それも結論のひとつには違いない。
神が何を人間に求めているかという、その矛盾には私は乗り越えられぬ壁のようです。
霊には何度も遭遇しているけれど、神にはあったことがないのですから…
昨日は、教会でオルガンを弾いたり司会をやったりして帰ってきました(^o^)丿
私も洗礼を受け数年が経った時に、一時、教会を離れました。そして転会もしました。
それは、やはり人間を見たからです。
その後、神様に勝手に連れ戻されましたww
最終的に人は罪びとであって、誰も神の前に逆らえる者は無なのです。
自分が愚かなように、他人も又然りなのです! みんな醜いのです。
神はこの世の取るに足りない者を選ばれてるのですから・・当たり前なのです!
そこに期待をしては、本末転倒と思います。
・・・と言うことで(^o^)丿・・そりゃあ紆余曲折ありますがww
どこも痛くなく暖かい家もあり仕事もあり、与えられていることがあるって、とても感謝で素晴らしいことですね。全世界の人が平和であればそれが一番だけど・・そう神様にお願いするけど・・
でも、神様が求めているのは、そう言う平和かどうか・・?人間も罪に気付かなきゃと思います。