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裁判における「科学的」の怖さ

足利事件が冤罪であった事が確定的になり、17年ぶりに自由の身になった冤罪被害者の報道でもちきりのようだ。

だがこの冤罪事件、すぐに始まる裁判員制度が陥るかもしれない危険性をも示している。
「科学的」という言葉の怖さだ。

そもそもこの冤罪はDNA鑑定という「科学的」な証拠が有罪の決め手とみなされた結果発生したと言える。
しかし当時のDNA鑑定の精度は185人に一人という割合で特定出来たに過ぎないそうだ。当時の日本の人口を一億二千万とすれば、それ÷185で六十四万八千六百四十八人、同じDNAパターンの持ち主がいた事になる。

足利市とその周辺の全人口に匹敵する数ではなかっただろうか?こんな数字を有罪の決め手と判断してしまったわけだ。

一流大学出で超難関の司法試験をパスしたインテリぞろいの裁判官でさえ「科学的」という言葉とイメージにコロッと騙されてしまった、とも言える。
ましてそんじょそこらの普通の市民からくじ引きで選ばれる裁判員が「科学的」な証拠です、と検察官に言われたらどうなるだろう?
一も二もなく盲信して鵜呑みにしてしまう危険性はより高いとは言えないだろうか?

裁判員制度では一般市民が死刑か否かを決定する時の心理的負担ばかりが議論されているが、冤罪を生む危険の方がより深刻ではないだろうか?
足利事件の人の場合、45歳から17年という、普通なら人生の収穫期にあたるかけがえのない時期を刑務所で過ごす事になった。この失った時間は誰にも取り戻せない。

こういう冤罪を発生させる危険に比べれば、有罪を認めている被告に死刑を宣告する場合のプレッシャーなどさしたる問題ではない。
裁判員になる人は自分が冤罪を発生させる危険にこそ悩むべきだろう。

日本人が「科学的」にこだわり過ぎて大失敗した例というのは戦前にもある。
陸軍が大量の脚気の死者をむざむざ出してしまった一件だ。

脚気は現在ではビタミンBの欠乏が原因だと分かっているが、当時はビタミンという物質の存在そのものが未確認だったため、伝染病だという説も有力だった。

一方庶民の間では玄米や麦飯を食べれば脚気は防げる事が経験的に知られていたが、当時の陸軍軍医はほとんどがこれを迷信、俗信として無視して「科学的」な解決に奔走した。

陸軍の下っ端の兵隊の間で脚気が蔓延していたのは白米を食べさせて、かつおかずがロクに無い、という食事のせいだった。
しかし当時医学の最先進国だったドイツへ留学していた陸軍の軍医は伝染病説を取り、食事の改善は行わず、見当違いの予防法を実行した。
その結果日露戦争中だけで万単位の兵士が脚気で死んだらしい。

ちなみに当時陸軍の軍医のリーダーの一人は森林太郎という人で、ドイツ留学帰りの日本でも指折りの医学の権威だった。それほどのエリート、インテリでも「科学的」という事に囚われ過ぎた結果、そういう大失敗を招いてしまった。

この人物、趣味で小説も書いていた。ペンネームの「森 鷗外」の方が多分有名だろう。

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2009/06/06 01:15
始めまして

仰るとおり、確かに「科学的」という言葉が持つ”確かさ”はある種の危険性を持っていると感じてます。

それは、ある事柄の一部分を科学的に説明された場合に、その部分だけではなく全体に対して信憑性を感じてしまうという、情報の受け手側の錯誤です。数字の魔力もその1例ですね。

健康法で説明される有効成分だとか、内閣支持率や視聴率調査などの統計など、認識の仕方を間違っているために社会的影響が出てしまう例は日常生活でも非常に多く見受けられます。
マスコミも意図的なのか一般市民同様の認識なのか、当たり前に間違った見解を垂れ流しています。

裁判員裁判でも検察側から出てくる「科学的」証拠が本当に”確か”なのかを裁判員が個々に判断するのは難しいでしょうね。現在の制度のままでは冤罪を防ぐどころか、むしろ多くなっても不思議では無い。

DNAを始めとする証拠の科学的分析は、主に犯罪を立証する手段としてのみ使われていますが、本当はむしろ無実を証明する手段としても有効につかえるハズなんです。
被告側が分析に立ち会ったり独自に鑑定する事が出来れば、検察と同じ土俵で戦え、裁判員も比較する事で正しい判断を下し易くなるだろうと思います。

現在は裁判所や検察の許可が無ければ被告側が独自に分析する事は出来ないようですが、
裁判員が被告側への許可を求める事で制度が変革していく可能性があればいいなあ、と思っています。




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