Nicotto Town



山谷ブルース2009

昨日5,6年ぶりぐらいに山谷(さんや)地区を訪ねた。
知らない人のために書いておくと、東京の台東区と荒川区の境界あたりにある、日雇い労働者の街である。「泪橋交差点」という、いかにもな名前の交差点を中心に、一泊千円以下で泊まれる簡易宿泊所(通称ドヤと呼ぶ)が集中していた。
失礼を承知で言えば、宿無しの日雇いの根城になっていた所だ。

全盛期には朝の4時5時から「手配師」と呼ばれる人たちがマイクロバスでやって来て、「どこそこの現場で日当何円。行く奴はこっち来い」てな具合に、労働者を集めて建設工事の現場などへ運んで行き、夕方にまた山谷に戻す。

日当は景気により上下したろうが、まあ一日数千円の給料で、近くの安酒場で一杯やってドヤに泊まって、また翌日の朝道路に並んで手配師から声がかかるのを待つ。いわゆる「立ちんぼ」と呼ばれた東京の最底辺の労働者が集まって暮らしていた場所だ。

5,6年前に仕事の関係で一ヶ月近く山谷に通いつめていた事がある。先輩社員の仕事の準備として、当時そこに住んでいた親分格の人たちと話をつけておくためで、焼酎とおにぎりを両手に抱えて毎週のように通っていた。

その頃も不景気で山谷でも仕事にあぶれる人が多く、ドヤに泊まる金もないのであちこちの路上で焚き火を囲んで夜明かししていた。
大の男でも足を踏み入れるのをためらう怖い雰囲気の場所だったが、幸いその時の我輩の仕事はうまくいった。

ところが昨日見た山谷はまるでゴーストタウンだった。
かつて一番路上生活者が多くにぎやかだった辺りは文字通り人っ子一人いない。

かつて日雇い相手の酒場が何軒もひしめいていた辺りはコンビニやファミレスに変わっていた。かつての知り合いに遭えるかと思って何時間もくまなく歩き回ったのだが、もう場所の見当もつかないほど変わってしまっていた。結局誰にも遭えなかった。

かつてのドヤは「~ホテル」というしゃれた名前に変わり、主に外国人の貧乏旅行者が利用する安宿になっているという。
何軒も看板を見て回ったが、大体一泊二千円から二千五百円。東京のホテルとしては格安だが、日雇い労働者が利用できる金額ではない。一軒だけ一泊千円という昔ながらのドヤがあったから、完全に日雇い労働者がいなくなったわけではないようだが、それも時間の問題だろう。

わずか2,3軒残る飲み屋さんも夜9時には灯が消えている。一軒だけあいていた飲み屋さんに入って、ママさんに事情を聞いてみた。運よく3人いたお客さんたちが元山谷の日雇い労働者だったので、ある程度事情が分かった。

3年前ぐらいから山谷に手配師が来なくなったそうだ。仕事にありつけないから、まだ働ける人たちはどこかへ去ってしまった。
もう高齢で肉体労働に耐えられない人たちは、区役所から生活保護を受け、世話してもらったアパートで暮らしている。
今山谷で見かけるのは、そういう福祉に頼って一人暮らしをしている人たちが時折、仲間に会いたくて飲みに来るぐらいらしい。

3年前と言えばちょうど公共事業の削減が本格化してきた頃だ。大規模な工事そのものがないのだから、日雇いの建設労働者に仕事がなくなるのは当然だろう。
小規模な仕事ならどこかにあるのだろうが、3年前と言えばスポット派遣が普及してきた頃とも一致する。
携帯やメールで日雇い仕事を派遣社員として受ける人たちの事だ。ワンコールワーカーとか日雇い派遣などと呼ばれる。こっちの方は若い人がいるので、高齢化した山谷の労働者より、雇う側としては便利なのだろう。

おそらくそういう事情で山谷には仕事の依頼がぱったり来なくなり、どんどん人が減った。お客がいなくなるのだから、大きな酒場は廃業し、ドヤは旅行者向けの安ホテルに次々に衣替えした。

岡林信康の「山谷ブルース」に歌われたような光景はもう山谷にはない。名残が残っているとしても完全に消滅するのは時間の問題だろう。

山谷は一種のスラム街とも言えるし、実際一昔前までは物騒な場所だった。そういう場所が東京からなくなったのは喜ぶべき事と考える人が多いかもしれない。

だが、山谷は同時に東京における一種の「セーフティネット」でもあった。
昔は山谷の住人の中には刑務所から出てきて行くあてがないとか、借金苦で地方から夜逃げしてきて山谷に流れ着いたという人たちも多かったそうだ。

が、逆に言えば、前科者だろうが夜逃げだろうが、体を張ってまじめに働く気さえあれば、最低限食べていくことが出来る、そういう場所でもあった。
また山谷という物理的な空間に集まっていることで、自然と連帯意識や助け合いの精神も生まれた。冬場には凍死する人は時々出たが、山谷で餓死者が出たという話は聞いた事がない。

何か、歴史の終わりを見てきたような、そんな気分で真っ暗な山谷を後にした。自分の生活とは無縁の街だが、なぜか妙に悲しかった。

アバター
2009/12/16 22:37
大阪のどこだかの公園でも以前テントを撤去して・・・というのがニュースになっていましたね。
府の担当者は簡易宿泊施設への入居を勧めていましたが、「なぜテントに住むことになったのか」という問題が検討されない限り、結局別のテント村ができるだけなのでしょう。

山谷から去った方々にもセーフティネットがあればよいのですが。
多くの人々に後がない状態というのは社会を不安定にしますから。
アバター
2009/12/15 00:04
手配師…
そういえば私が通っていた大学にも学生バイト専門の手配師がよく来ていました。
業務内容は建設ではなく、小売業のバックヤード整理でした。
アバター
2009/12/14 22:33
山谷という場所のことは、
TVで見たり話を聞いたりしたことがありましたが、
jokerさんのブログで、とてもリアルなものに感じられました。
何か、悲しい気持ちになりますね。。。
そういえば、大阪城公園のテント村は今はどうなっているのかなあ。
あそこの人は、仕事してるふうではなかったなあ。
アバター
2009/12/14 06:57
河原にブルーシート いっぱい あるわ
アバター
2009/12/14 01:42
そうだったんですか…。
かつて山谷にいた人たちは今、どんな生活をしているんでしょう?
かわりの場所なんてあるんでしょうか。
心が重くなるお話です…。
アバター
2009/12/14 01:05
青い目のバックパッカー というのは昔の言葉
今は オタク外人さんが 宿泊費を節約して 買い物にまわす ということみたいですね。
ここに泊まって 秋葉 まんだらけ などへ
生活保護で救われればいいのですけど プアービジネスというものが生まれて 再び搾取の対象にされているという現実もあるみたい
アバター
2009/12/13 20:33
実際、山谷という場所で活気があった時期に訪れたjokerさんが現在の山谷を訪れ、
感じて・・・この記事が出来たんですね。

すごく大切な事を教えて頂いたのですが・・・言葉が出てこないですね。。
勉強不足ですね(*_*)
アバター
2009/12/13 16:30
山谷からインターネットカフェ、まんが喫茶みたいなところに舞台が移ったのでしょうか。
携帯電話、インターネットで仕事の連絡が来る形になったのでしょう。
手配師の人も電子メールでやりとりする時代になったのでしょう。
アバター
2009/12/13 15:45
そうですか。時代の厳しさを感じますね。山谷に足を踏み入れたことはありませんが、
気持ちは伝わってきます。
建設業界の冷え込みは各業界に強く影響しますね。
ゴーストタウンのような街並に行くと、寂しさを感じます。
アバター
2009/12/13 14:39
そうなんだ。。

諸行無常の響きありですね。。





Copyright © 2024 SMILE-LAB Co., Ltd. All Rights Reserved.