Nicotto Town



十代のためのカンボジア現代史(1)

カンボジアでポル・ポト派幹部に禁固35年の判決というニュースが日本でも流れている。
が、日本の学校は現代史をほとんど教えないので、若い人には何の事だか分からないかもしれない。

また、現在のカンボジアの一応の平和と安定に日本がけっこう役割を果たした事を知らない若者も多いかもしれない。
というわけで、カンボジアの第二次大戦後の歴史を簡単に述べてみようと思う。

カンボジアは「クメール人」という民族が大多数を占める国で、古くはアンコールワットに見られるような強大な王国であった時代もある。
だが東はベトナム、西にタイ(古くはシャムと言った)というライバルがいて、それと戦いの歴史でもあった。

19世紀末にベトナムとともにフランスの植民地にされ、第二次世界大戦後にそれぞれ独立を果たすが、隣国ベトナムが共産主義国家である北ベトナムと資本主義国家である南ベトナムに分かれて独立したため、以後カンボジアもそのとばっちりを受ける事になった。

カンボジア自体は分裂する事はなく、シアヌークという国王の指導下で比較的平和的にフランスから独立したが、北と南の二つのベトナムがいわゆる「ベトナム戦争」を始めてからカンボジアも巻き込まれた。

ベトナム戦争は、北と南がそれぞれ国を再び統一しようとして始めた戦争だが、当時はアメリカとソビエト連邦が率いる資本主義陣営と共産主義陣営が世界制覇を狙っていた「冷戦時代」であった。
北ベトナムにはソ連が、南ベトナムにはアメリカが味方に付き、統一後のベトナムをどっちの仲間にするか争っていた。

南ベトナムが劣勢だったため、アメリカは米軍を直接ベトナムに送り込み、1965年からは爆撃機で北ベトナムに爆弾の雨を降らせる、いわゆる「北爆」を開始、本格的に軍事介入した。

ところが、カンボジアとベトナムは陸続きでお互いに国境の近くは未開のジャングルが多い辺境地帯。このあたりにはカンボジア政府のコントロールがきちんと及んでいなかった。
それをいいことに、北、南両方のベトナム軍が敵の目を盗んでこっそりカンボジアの領内を通って軍事物資を運んでいた。

アメリカは北ベトナムへの物資輸送を断つためカンボジアの一部をも爆撃した。
これに怒ったシアヌーク国王は反アメリカ的な政策を取るようになる。しかし当時のアメリカの目にはカンボジアが北ベトナムの、そしてその後ろにいるソ連の味方をしていると見えた。

そこでアメリカは国王に批判的だったロン・ノルというカンボジア軍の将軍を援助した。
そしてその後ろ盾を使ってロン・ノルは1970年にクーデターを起こし、軍隊がカンボジア政府を乗っ取ってしまった。この時シアヌーク国王は外国に亡命した。

さてアメリカのおかげで出来た軍事政権だから、ロン・ノルは自国内での米軍の爆撃を黙認した。だが当時は誘導爆弾だの精密なミサイルなどはなく、爆撃と言えばゲリラがいそうな場所に所かまわず何百、何千発もの爆弾をばらまくという方法。
当然ゲリラでもない共産主義者でもない普通の農民が被害に遭い、都市に逃げこむ。
農業をやる人が激減し都市に難民として逃げ込んで喰うや喰わずの生活になる。
当然ロン・ノル政権への不満が高まっていく。

それを利用して「クメール・ルージュ」という共産主義勢力が1972年にロン・ノル政権を倒し、カンボジアを共産主義の国にしてしまった。
このクメール・ルージュが後にリーダーの名前から「ポル・ポト派」と呼ばれた。

このクメール・ルージュは極端な恐怖政治をやった。
まず「お金」という物を廃止してしまった。都市の住民を強制的に農村部に移住させ強制労働をさせた。さらにロン・ノル政権時代の関係者はもちろん、家が金持ちだったとかいうだけの理由で大勢の人が強制収容所に送られ、最後はなぶり殺しにされた。
今回禁錮35年の刑をくらったのは、この強制収容所の所長だった人物だ。

一般の国民もこのクメール・ルージュの統治した7年程の間に、食料不足や過酷な強制労働のために多くが死に追いやられた。
その死者数は今でもはっきり分からない。推定で最低70万人、多く見積もる人は300万人だったとも言う。

そして1979年、さらにややこしい悲劇がカンボジアを襲う。

(以下パート2へ続く)





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