デカンショ節と京大カンニング
- カテゴリ:学校
- 2011/03/06 13:46:45
インターネットの掲示板を使った京大入試カンニング事件が、例によってどうでもいい細部をほじくり回す報道で話題騒然である。
カンニングが許されないのは当たり前だし、警察沙汰にまでする事か?という疑問にも一理はあると思う。
今さらそれを論じる気はないが、事の本質は日本社会全体が学歴神話から抜け出すどころか、ますます深みにはまっている、という点だろう。
だから、あんなカンニングを企む人間が出てくる。
各種報道によれば、カンニング犯の学生、親に経済的負担をかけないようにどうしても国立の京大へ入りたかったと言っているらしい。
それが理由だというのは明らかに嘘である。
確かに国立大学の方が学費は安い。しかし、国立大学なら彼の実家のある山形県にだってある。現在全ての都道府県に最低でも一つは国立大学がある。
経済的負担うんぬんというのなら、なぜ例えば山形大学を狙わなかったのか?
早稲田大学には合格していたそうだから、旧帝大である京都大学より、戦後の新制大学である東北地方の各県の国立大学の方が合格できる可能性はずっと高かったはずだ。
明らかに旧帝大というブランド志向の結果である。
ネット掲示板に投稿された質問の内容を見る限り、とても京大を狙えるレベルの受験生だとは思えない。
英単語の二、三個や数学の公式などをネットでのぞき見したのならともかく、問題文全体を投稿して誰かに教えてもらわないと答案が書けないのなら、仮に合格出来ていたとしても、京大の授業についていけるはずはない。
よく日本の大学は「入るのは難しく、出るのは簡単」と言われるが、旧帝大は別である。
あんな低レベルのカンニングで入学した学生が簡単に卒業できるはずはないし、卒業できたとしても社会では通用しない。
いい大学に合格出来れば後は一生安泰、という学歴神話が行く所まで行ってしまった結果だろう。
だから有名大学付属の小学校、さらには付属幼稚園に入るための「お受験」などという、欧米人から見ればブラックジョークとしか映らない現象がまん延するのだ。
戦前「デカンショ節」という戯れ歌が旧制高校の学生の間で歌い継がれていた。
当時の高等学校は今の高校とは全然別物である。一部は「大学予科」とも呼ばれた。
当時の帝国大学はいきなり専門課程から始まり、現在の「大学の教養課程」にあたる授業を受けるのが旧制高校であった。
デカンショ節の起源や歌詞の由来には諸説あるのだが、もともと丹波地方の歌で「デカンショ」とは「出稼ぎ」を意味する方言だったという説が有力だ。
京都という当時では日本最大の経済都市がすぐそばだったので、出稼ぎに行っていい稼ぎを持って帰る人も多かったらしい。
デカンショ節の歌詞はたくさんのバリエーションがあるが、戦前の学生がよく歌っていたのは以下のような歌詞だった。
「デカンショ、デカンショで 半年暮らす 後の半年ゃ寝て暮らす
エンヤコラセー、デカンショ」
これは農閑期の半年京都で出稼ぎすれば、残り半年を「寝て暮らす」は大げさとしても、かなり余裕で生活出来る、という意味だろう。
戦前の学生はこれに引っかけて「デカルト、カント、ショーペンハウエル」の頭をつなげて「デカンショ」と呼び、上記の歌詞を好んで歌ったそうだ。
旧制高校は二学期制で一年生の前期で「哲学」が必修であった。
この哲学の単位を落とすと二年生に進級出来ず、帝国大学の受験資格がもらえない。
しかし上記3人の哲学理論なんてのは現代人にとっても見ただけで頭痛がしそうなほど難解である。
つまり帝大進学を目指す学生にとっては、旧制高校一年次の哲学の試験はまさに運命を分かつ重大事であったわけだ。
これを突破する苦労に比べればその後の授業なんて「寝て暮らす」に等しいほど楽、だったわけである。
逆に言えば、いやしくも最高学府に入ろうというからには、その程度の試練には耐えられる学生でなければ困る、というのが国の方針であったわけだ。
現在の大学入試も、「試練を自力で乗り越えるだけの人間的力があるかどうか」を試す物であるはずだ。
そうでないと「名門大学出の役立たず」だらけの社会になってしまう。
大学入試のあり方も再検討の余地はあるが、受験生本人はもちろん、企業や親や社会全体が「いい大学に合格出来さえすれば、あとは一生何の努力もしなくても、勝ち組としての生活が死ぬまで保証される」という幻想を捨てるべきである。
少なくともこれからの時代の日本はそんな甘い世界ではない。
ただその後は自分次第の世界。
天下りをしているお役人ですら、やり手の人とそうでない人は雲泥の差。
同じ大学を出ていてもね。
民間企業なら尚更。
入れても役に立たなければ落伍するだけ。
お金がないなら地元の国立に入りますわね。
自宅の場所によっては通える場合もありますし。
第一浪人して寮に入って勉強に専念なんてできるわけがない。
お金がない人が浪人する場合、新聞配達などバイトをせざるを得ないのが現実というものです。
それでも、一連の過熱報道はどうだかなぁとは思います。
他にいたかもしれない古典的なカンニングをした人との差を考えたら処罰としては重いですよね。
ネットという話題になりそうな方法でカンニングしたこの受験生の自業自得と言ってしまえばそれまでですが、親類縁者・友人知人がみなカンニングしたことを知ってしまった後にリカバリーするのは大変でしょうね。
あ、お役人さんの世界は今でも「名門大学出の役立たず」が通用する世界ですね。。。(すべての公務員がこうでないことも知っていますが、それでもこういう人が多いのも事実です)
頑張って、勉強しまくり、実力で合格を勝ち取るのが 親孝行だと思う。
負担かけたくないなら 働くという方法もあると思う(^^;
この一瞬の行為で 大きな親不孝してしまいましたね。
カンニング行為って卑怯な手法だと思います。また、見回りの人は何してたんでしょうか(^^;
大学で何をしたかは社会人になるにあたって全然役に立たない。
しかし、厳しい受験の時期を誘惑に耐えて勉強した精神力は評価に値する。
ということで、入試で勝ち組が決まるのは現状では正しい気がします。
大学4年間で学生をどう鍛えたのか、大学側が示せないなら。
京都大学が「試験監督体制に問題がある」と言われて逆ギレして民事するのかと思ってました。
>英単語の二、三個や数学の公式などをネットでのぞき見
同じカンニングでもこの方法だったら警察沙汰にならなかったと思うと
何かがどこかで間違っている気がするんですよね。
高レベルの学校って入ったはいいけど周囲にもっと高レベルな学生がそろっててそこから脱落することもよくあります。同級生のお兄さんでそういうのがあった。親が超スパルタ教育して有名高校に入れたのに登校拒否→→→精神的にかなりやばくなって未だ無職らしい。
ブランドに固執せず有意義な人生選択ができる世の中になってほしい。
経済の関係なら山形のほうに
入りますよね(*´∀`)ノ
この事件についてはあんまりニュース関係を
よく知らない人も、(友達)知っていましたwww
学校でのテスト中に、先生にも、
「あのニュースの人のようにカンニングはしないで」とか、
「カンニングしていい点とっても意味がない」
みたいな事。言われました!
学歴社会というのを、尊重した感じのニュースだったと思います。