Nicotto Town



入れ墨とタトゥー(1)

大阪市役所の入れ墨職員の問題が話題になっている。
若者の間でいわゆるファッション・タトゥーが流行っている現状から考えて、どこまでが許容範囲か?という問題がいずれ出てくるだろう。

さて橋下市長の上げ足を取るつもりはないが、言葉の定義を再考しておこう。
まず歴史的には今大阪で問題になっている物は「彫り物」であろう。
「刺青」と書いて「いれずみ」と読む類の物だと思う。

本来「入れ墨」という言葉は江戸時代に刑罰の一種として始まった物を言う。
百叩きの刑などで放免される場合に腕にぐるりと黒い線を入れ墨で入れた。
前科者である事が一目で分かるようにしたわけだ。

その後、島流しから戻った前科者がまた罪を犯すケースが増えたので、最初の刑期満了で一本、次に刑期満了で釈放される時にまた一本。
江戸の場合、三回目に捕まったら即打ち首、つまり死刑。
つまり再犯の回数が一目で分かるようにしてあったわけだ。

西日本ではどうか知らないが、東日本ではこういう装飾性も何もない前科者の目印としての黒い線が「入れ墨」と呼ばれた。
背中一面にたとえば龍虎、観音像などを色とりどりで彫り込む物は、関東では「彫り物」と呼んで入れ墨と区別した。

西日本では彫り物の事を「刺青」と書いて「いれずみ」と読む事が多かったと記憶している。
これは中国から伝わった習慣だろうと推測される。
身体装飾としての入れ墨、今で言うタトゥーは古代から中国でも盛んだった。

ただ中国でも日本と同様、かたぎとは言い難い生業の人たちが自己の勇敢さを他人に誇示するために刺青を入れる事が多かったらしい。
たとえば水滸伝では、梁山泊の108人の頭領の中にも背中一面に「彫り物」としての刺青を入れていた人物が多数いた。

梁山泊の頭領の中で唯一女性である「一丈青扈三娘(いちじょうせい・こさんじょう)」は男顔負けの武術の達人でありながら、外見は良家の令嬢のごとき美女だったとされている。
だが、一丈青の「青」は刺青の事ではないかという説もある。

水滸伝は中国の明代に書かれたフィクションだが、彫り物をした女性ですら完全に否定的な目では見られていなかった証左だとも解釈できる。
ただ中国で刺青をしていたとされている人物に共通しているのは、武勇を誇る人物であり、しかし皇帝直属の役職にはつけない身分であるという点だ。

刺青はなかったようだが、梁山泊の頭領の筆頭である宋江という人物は諸国を流浪していたとされているが、実は塩の密売人ではなかったか、という説もある。
王朝時代の中国では生活必需品である塩の売買は国家が管理する専売制度であった。
当然国家財政が苦しくなると塩の税金を上げててっとり早く税収を上げようとする。

さらに徴税は各地の地方官吏に一任されていたから、皇帝府から命じられた以上の税金を吹っかけて私腹を肥やす役人も多かったはず。
その重税がかかった塩を買えない庶民に、こっそり税抜の価格で塩を売って回る密売人が各地にいたそうで、水滸伝の宋江も若い頃はそれで生活していたという説である。

つまり中国の刺青は「反体制、反権力」の象徴であり、あまり関わりたくはないが万一の時は庶民の味方として権力の横暴と戦ってくれる人物、というイメージがあった。
こういう目的での刺青は、いきがってやる場合も含めて、かなり昔からあったらしく、孔子の論語の中にも刺青を批判したと解釈できる一節がある。

孝教という巻の中に「身体髪膚之(これ)を父母に受く、敢えて毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなり」とあるのがそれだ。
この「敢えて毀傷」というのは刺青の事ではないか、というわけだ。
孔子は紀元前5世紀ごろの人物だから、身体装飾としての刺青は、中国では相当古い事になる。

また歴史学では「禁止する法律があったのなら、その行為が広く行われていた証拠」と考えるのがセオリーである。
論語は法律ではないが、この一節が日本にまで伝わって広く知られているという事は、刺青を入れる若者が後を絶たなかったからに相違ないだろう。

おそらく中国と日本の交易が盛んになった平安時代末期以降、中国の船乗りなどの刺青に刺激された日本人がそれを真似るようになったのが、日本の彫り物、刺青ではないかと考える。

ただし、中世までの刺青は江戸時代以降のそれとは違い、一種の身分証明ないしは自己の安全保障のための物だった可能性が高い。
これは日本の刺青の起源が邪馬台国にあった事から考えて、帰属証明としての機能と身体装飾としての刺青が併存していたと考えられる。

(この項、続く)





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