日本でイスラム教は広まるか?
- カテゴリ:人生
- 2014/02/13 18:08:23
日本でイスラム教徒に関する関心が高まっている。
原油輸入の大部分を中東のイスラム地域に頼ってきた割には、日本人はイスラム世界に無関心過ぎた。
またマレーシアなどのアジアの経済新興国からのイスラム教徒の観光客が増えてきているため、関心を持たざるを得なくなってきたという面もある。
現時点では、外国からのお客さんを迎えるために必要だからという、実利的な理由に留まっている。
しかし今後、日本人のイスラム教徒が増える可能性がある。
あまり知られていないが、日本にもイスラム教の礼拝施設は十指に余る程存在している。
東京だけでも有名な施設が3つある。
一番大規模で有名なのは渋谷区代々木上原にある「東京ジャーミー」。
次に浅草モスク、大塚モスクが有名。
他にも小規模なモスクはあちこちにある。
イスラム教では遺体の火葬はタブーなので、イスラム教徒専用の土葬式墓地もわずかだが存在する。
実は「モスク」という呼び名は欧米人の発音で、イスラム教徒はアラビア語の「マスジド」という言葉で呼ぶ。
従って、浅草モスクは「浅草マスジド」、大塚モスクは「大塚マスジド」と呼ぶのが正しい。
東京ジャーミーは別格で、マスジドより大規模な、数百人ぐらいが同時に礼拝できる大型の物が「ジャーミー」と呼ばれる。
イスラム教のモスク(マスジド)はキリスト教の教会や日本の神社仏閣のような物ではない。
あくまで礼拝をする場所であり、かつその地域のコミュニティセンターのような役割を果たす。
日本では誤解されている事が多いが、イスラム教には「聖職者」は存在しない。
イスラム王朝であったオスマントルコ帝国が崩壊して以来、カリフやスルタンという制度そのものが消滅したため、少なくともスンニー派では、宗教的な指導者はいない。
スンニー派では各地に「イマーム」と呼ばれる人たちがいるが、これは地域の長老格の男性の中からイスラムの教義に明るい人が選ばれて、地域のモスクの運営を任される。
金曜礼拝の時、モスクの「ミナレット」と呼ばれる尖塔の上から「アザーン」と呼ばれる歌うような礼拝開始の掛け声を発する人である。
逆に言えばそれ以上の存在ではなく、町内会長兼「おらが村の住職さん」みたいな存在である。
ある事象がイスラムの教義上許されるかどうか、という点に議論が起きると「ウラマー」と呼ばれるイスラム法学者が各地にいて、見解を地域住民に発する事がある。
ウラマーが発した正式見解は「ファトワ」と呼ばれる。
ところが、このファトワは各地に無数にいるウラマーが個別に決定する。
カトリックのように特定の聖職者が発表して信者に強要できない。
また複数のウラマーが異なる内容のファトワを発した場合、どれに従うかは個々のイスラム教徒の自由である。
イスラム教を信仰する人の事を「ムスリム」と呼ぶ。正確に言うと男性が「ムスリム」、女性が「ムスリマ」である。
よくイスラム教の事を「剣かコーランか」と言うが、あれは欧米社会の解釈を日本人が鵜呑みにしてしまったからだ。
イスラム教の異教徒に対する態度は「コーランか、人頭税か」と言った方が正しい。
イスラム教ではアッラーに対する信仰を他人に強要する事は禁止されている。
ムスリムになるかどうかは、あくまで本人の自発的な意思でなければならないとされている。
当然、異教徒であり続ける自由も保障されている。
ここからが現代日本人、特に若者がイスラム教に惹きつけられやすい特徴になる。
歴史上イスラム王朝、帝国は多数存在したが、その領土で異教徒が駆逐されたり、根絶やしにされた事はない。
ムスリムは領土内の異教徒には人頭税を課したし、平等に扱ったとは確かに言えない。
しかしムスリム同士であれば、差別を禁止している宗教でもある。
例えばオスマントルコは、トルコ民族が異民族であるアラブ人やベルベル人などを支配した帝国だが、ムスりム同士である限りは異民族間では平等でなければならなかった。
日本のモスクやジャーミーは全てスンニー派の物だが、シーア派のムスリムが礼拝したいと言って来たら、受け入れなければならないし、実際そうしている。
イスラム教の創始者である予言者ムハンマド(マホメット、モハメッドという呼び方は、トルコ語の発音らしい)はアラブ人だが、まっとうなイスラムの宗派では、だからと言ってアラブ人が他の民族のムスリムより上とは考えない。
以前日本の首相が中東のある国へ行って「お国には税金がないそうで、いいですね」と発言して失笑を買った事があった。
莫大な石油収入がある富裕な産油国には確かに日本の所得税にあたる物はない。
しかし湾岸諸国はほとんど世襲王政なので「代表なくして課税なし」という欧米式民主主義の理論を逆手に取っているからそうなのだ。
この理論を逆に読めば「税金を取っていないなら国民の代表たる議会政治を行う義務はない」という事になるからだ。
しかし所得税がない国でもムスリムは「ザカート」を払う義務がある。
日本語で言うと仏教の「喜捨」にあたる物で、貧困な者を除いてムスリムは全財産の2~3%にあたる金額を毎年寄付しなければならない。
法律で義務付けてまでいるかどうは国によって違うが、これは税金と変わらない。
異教徒に人頭税を課したのは、異教徒はザカートを払う義務がないからだ。
これとは別に、あくまで自主的に行う行為として「サダカ」という物もある。
これはいわば「社会奉仕としての寄付」で、金額は自由、お金がないなら物や食べ物でもいい。
自分の住む地域のモスクに託すのが一般的だが、富裕な者は近所の貧困家庭に直接手渡してもいい。
面白いのは、このサダカを渡す時には自分の素性を名乗ってはいけないという掟がある事だ。
サダカはあくまで善意で行う貧者への同じムスリムとしての相互扶助なので、受け取る相手に恩を着せてはいけないし、どれほど多額であろうとサダカを提供した事を他人に公言して自慢したりすると、軽蔑、非難の対象になる。
どこか昔の日本社会に似ていると感じないだろうか?
それこそが日本の若者がイスラム教に心惹かれる最大の理由なのだろうと思う。
「ムスリム同士であれば」という条件はつくが、イスラム世界では民族、国籍などが違っていても、平等でなければならない。
ザカート、サダカを通じて所得の再配分が広範に行われ、かつ「寄付、慈善、社会奉仕は匿名で」が常識となっている。
日本社会が失ってしまった「平等、公正」が今でも最上位の価値を与えられている宗教、それがイスラム教である。
現実世界では政治などの点では、理想通りには行っていない国も多い。
しかし、格差が拡大し、自己の利益だけを追い求める風潮が当たり前になった日本で、不本意に非正規労働者になったような、差別される側の若者がイスラム教に改宗する動機は充分過ぎる程ある。
今までは日本人のイスラム教徒と言うと、イスラム教徒の外国人男性と結婚した日本人女性が圧倒的に多かったようだ。
だが、今後不遇な境遇にあえぐ日本人の若者が、「平等、公正」に惹かれてイスラム教に改宗し始めるかもしれない。
それは一面では日本人のイスラム世界への理解を深める事に資するだろう。
だが改宗の理由が、日本社会で失われた平等、公正、相互扶助という理想を求めての事だとしたら、日本人として、もろ手を挙げて喜ぶべき話だろうか?
プロパガンダをぬきにしたら、イスラム教は人間的な目では、すばらしい功績が多々ありますよね
ですが、日本の天才学者といわれた小室直樹さんが提唱されているように、日本では、イスラム教は受け入れられないようになっているのではないでしょうか
それは柔軟性を重視してきた民族だからですね
イスラム教は、あまりにも戒律が厳しく、戒律を重視しすぎるところが難しいと思いますね
ですが、イスラム教のように、正しいことを貫く気持ちはとても大切だと思います
ただ、格差社会に絶望したことが原因でイスラム教に改宗しているのなら、そのひとたちはまたキリスト教に戻ることになるでしょうね。格差社会をつくっているのは、キリスト教ではなく、オカルト宗教ですからね
キリスト教もイスラム教も兄弟みたいなものですから、仲良くやっていきたいですね
そう、イメージなんですよね。
イスラム圏が政治、人権の面で問題を多く抱えているのは事実。
でも欧州では格差社会に絶望した白人キリスト教徒の若者がイスラムに改宗する事例が既に起きてます。
それでシリアやイラクのような政情不安な国へ「イスラム義勇兵」として送り込まれたりしている。
どんな宗教も諸刃の剣なんでしょうね。
絶対に妻を複数持たなければならないわけではないけど複数の妻がいる人もいるわけだから、重婚を禁止している日本の法律に抵触してしまう。
妻は何番目だろうと正式な妻なので、日本人的な発想で「1番目以外は愛人」みたいな捉え方をすると大問題になるでしょう。
あと大変そうなのは食事かなぁ。
日本人は食のタブーがあまりないけど、イスラムには結構タブーがある。
都会なら専門の料理店だとかスーパーだとかあるのかもしれないけど、少なくともうちの近辺で「正しく処理された肉」かどうかわかるようにはなっていない。
これもイスラムの人が増えてきたら変わるのかもしれませんが。
でもイスラム圏の人に公正とか平等というイメージはないかなぁ。
サッカーの試合とかあちらですると不可解な審判がよくあるとききますし、富裕国で自国民は課税なく生活しているけど開発等の労働は外国人(こちらもイスラム教徒)が安い賃金で働かされているなんて話も聞きますので。
キリスト教も十字軍が当初は理想を語っていても後に目標が様変わりしましたし、宗教は理想と現実に一定の乖離が見られるものなのかも。