Nicotto Town


うみきょんの どこにもあってここにいない


梅という非日常


 そう、外をまわる仕事をするようになって、それまでよりも季節が感じられるようになった、と前回書いた。それまでよりも、季節が前倒しに感じられるようになったというか。わたしのなかで春というのは、ながらく三月のことだった。啓蟄をすぎたあたりだ。だが、そうではなかった。立春すぎぐらいから、春たちは、そこここに顔を出し始めていたのだった。
 そして梅。三月から春がやって来ると、思っていたからだろうか。いや、梅に関しては、どこかで開催されている梅祭りや、梅園などに行かないと、咲いていないように、どうも思っていたらしい。近所のあちこち、庭先や、公園で、見かけるそれらは、梅祭りの折に咲いている梅の開花状況を知るためのバロメーターにすぎなかったのではなかったか、そう思えるようになってきた。
 ということは、この頃、梅に関して、小さな発見があったから。わたしは梅が好きだと思っていた。もちろん好きだけれど、その梅は、長らく梅園で咲いている梅に重点を置いていた。満開の、あたりを覆い尽くさんばかり、寝ころべば、空すらも梅の白さで覆ってしまう、見渡すばかりの満開の清い白濁。
 わたしは梅という祭りが好きだったのだなと思う。それは非日常であり、幻想だから。
 けれども、幻想や非日常としての梅は、そこここにあったのだった。イベントばかりが梅だと思い込んでいて。
 ほかの草花、鳥たちが、日々、わたしに非日常としての美をおしえてくれるように。
 家の近くに、大きな、見事な桜の木があるお寺がある。桜の頃になると、毎年ライトアップもしてくれている。うちのベランダからも、そこだけ、島のように桜色が浮かんで見えるのだった。
 このところ、週に一回は仕事でかならず回る地域がある。そこを行くときに、このお寺の前を通るのだけれど、先日、そこで梅の花が咲いているのを見つけた。桜の陰にかくれるようにして、まるで寄り添うように、ひっそりと、けれどもある意思のようなものをもって咲いているように思えた。あるいは伸びた梅の枝は、桜から生えたそれのようだった。
 うちの近くといっても、桜の頃しか、このお寺の前を通ることがなかったから、今まで気づかなかったのだ。そのことにも驚いた。わたしは梅のなにをみていたのだろう。彼女たちも、そこここで、わたしに幻想をかたりかけてきてくれていたのだ。日々のなかで。
 そのお寺のあるほそい道をまっすぐゆき、道なりなのだが、右に曲がると、また誰かの家の梅の花、そして向かい側では、エリカの桃色の花がやわらかく手招きしているように咲いている。この花は6月ぐらいに咲くのだと思っていたから(そういう品種もある)、突然の出会いに、どこか信じられないような気がして、それがまたうれしかった。曲がってすぐのエリカと梅の歓待に、日差しが加わる。曇り空だとまだ空気がつめたいけれど、晴れると、だんだんと力を取り戻してきた光が、暖かさをぬくもりのように、さしだしてくれるのだ。




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