Nicotto Town


うみきょんの どこにもあってここにいない


あたりは異界で満ちている 速水御舟展 2


 『速水御舟 ─日本美術院の精鋭たち─』(二〇一三年八月十日─十月十四日)。 続き
 第一章、おふねさんのそんな歓迎の手招きの後、菱田春草らの作品を見る。菱田春草の朦朧体とよばれる、霞がかかったようなにじんだ筆にも、しみいるものがあった。解説によると、空気をあらわそうとしたらしい。空気というよりも、質感、気配のようなものを感じたような気がする。《釣帰》《雨後》など。

 「第2章 速水御舟と再興院展の精鋭たち」におふねさんの作品が集中して展示されていた。うれしい。
 観たものが多かったが、こちらの気持ちがちがうのか、初めて観るような気分になった。それとも少し違う。新鮮な感想のようなかたまりを絵から受け取っているのだが、かつてのわたし、以前絵をみたわたしが、すこし離れたところで、それを眺めている、そんな感覚だ。わたしが知っているのと、未知のあいだで、二つにわかれている。分かれながらも、つながりのほそい糸がみえている。
 《春昼》(一九二四(大正十三)年)は藁ぶき屋根の農家を描いたもの。ひさしや屋根に小さな鳩たち。鳩はおそらくそこに巣をつくっているのだろう。一見農家を描いたもののようだが、鳩に気付いてしまうと、なんだかぬくもりをかんじてしまう。そのようにみると、屋根のあたりがほっこりと、春の日差しで、あたたまっているようにも感じられる。春霞の、青い空。おふねさんにしては、やさしい印象の作品だなと思う。やわらかいいつくしみ。
 その近くに《百舌巣》(一九二五(大正十四)年)があった。これは実物を見るよりも先に、ミュージアムショップにあった絵ハガキでその存在をしったものだ。わたしは実物を見て気にいった時だけ、絵ハガキを買うのだけれど、これに関しては、なぜか観る前に買ってしまったことを覚えている。こんなことはほとんどない。珍しいことなのだ。けれども、買っただけで、それをとりたててじっくり見ようとしたことはなかった。その機会は、実物をみてからにしようと。
 では、《百舌巣》はそれから観たことがなかったのだろうか? その記憶があやふやだ。観たことがなかったような気もするのだけれど。だから、今書いてみる。絵ハガキをみながら、もとい、展覧会会場で、実物をみたときの記憶を。
 百舌のヒナが二羽、丸まった巣の上にとまっている。百舌という鳥は、意外に怖い顔をしている。目がそう思わせるのかもしれない。ハヤニエ(枝に獲物を刺してとっておく)をつくるから、そう思うのかもしれない。描かれたヒナもくまどりをしたような目のせいか、やはりちょっと目がするどい。だが、それと対比するかのようなヒナの毛の感触、そして巣につかわれた羽のやわらかな、光りかがやくような、繊細な質感が、《春昼》のように、おおむねぬくもりとして感じられるのだった。巣のぬくもり。
 
 そして《秋茄子》(一九三四(昭和九)年)。茄子と葉、その大半を墨で描いた作品。花が一輪、それがわずかに赤紫、そして葉にとまった小さなバッタが緑。《牡丹花(墨牡丹)》をほうふつとさせる墨が静謐だ。この作品は観たことがないか、おそらく観たことがあっても、当時は素通りしてしまったものだと思う。それは耳をすませて聞くように、注意深くみないと、気付きにくいものだった。静けさから、かそけき声をきく。そんなふうに小さな緑のバッタが眼にとまった。緑があざやかすぎる。まるでカゲロウの羽のように、鮮やかな生を墨色の葉のうえで、みせつけていた。なんというすがすがしい幻想だろう。ここに墨のせいか、牡丹で感じたような幻想をまた感じた。海綿が水を吸うように、けれどもあわく、やわらかな水の幻想だった。
 そして琳派をすこし思わせる(だがやはりおふねさん独自の世界だから)金地の背景の屏風絵《翠苔緑芝》(一九二八(昭和3)年)。左隻の苔地にウサギと紫陽花、右隻の苔地に琵琶の木や躑躅と黒猫(チラシやポスターに使われているのがこちら側の絵だ)。動物たちはおおむねちいさい。彼らが主役ではないように。だがつい目がいってしまう。わたしは個人的に猫のほうがすきなので、以前みたときは、つい黒猫のほうにばかり目がいってしまったが、今回はなぜかウサギがいるほうの紫陽花にひかれた。ぼってりと、ひびわれたような紫いろの花びらたちと、うっそうとした緑の濃い葉たち。そのボリューム感と、白いうさぎのつつましさに対比を感じたのかもしれない。右の黒猫は、ウサギのいるほうに視線をさまよわせている。二匹いるうちの一匹のウサギもまた、寝そべりながら、猫のほうを見つめている。彼らはおそらく金のなかで視線をかわしあっているのだった。
 そして梅や桜の絵たちが続く。目当ての《春の宵》もあった。さきほど触れたので多くは語らないけれど、今回もその絵は誘う静かな魔だった。何回みても、というよりもみるたびに、幻想だ。それはしたしい友人を前にしたときのような気持ちに似ているかもしれない。あうと何だかほっとする。最初の衝撃はないけれど…というよりも、最初からそれほど衝撃はなかったかもしれない。ただ静かな、強い魔だった気もしてくる。今回展覧会会場で出会ったそれは、親しげな魔だった。たぶん次回(いつだかわからないが)、この次にあったときも、《春の宵》は親しげに魔であるだろう。
 《春の宵》という夜の桜の手前に、夜の梅があった。あたかも季節がそうやって進むように。《暖香》(一九三三(昭和八)年)。左端から二本の梅の枝が右端にかけて横切るように伸びる。そこに薄紅色の梅。背景は暗い、墨と茶色をまぜたような淡い夜だ。梅の花は灯るように咲いている。めしべが金色にうっすらとひかって。
 そして題名にあるような香り…暖かい香りが、ただよっているように思えた。春の夜、梅の香りがともるようにやってくる。ほんのすこし甘く、そしてどこか怖い、けれどもおおむねやさしい灯のような香り。
(続く)




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