Nicotto Town


うみきょんの どこにもあってここにいない


あたりは異界で満ちている 速水御舟展 3


『速水御舟 ─日本美術院の精鋭たち─』
(二〇一三年八月十日─十月十四日、山種美術館)
続き

 このほか数点の展示があり、未完の作品《盆栽梅》(一九三五(昭和十)年)があった。正月の梅が描かれているが、二月末に発病、三月二十日に腸チフスで亡くなっているので、絶筆に近いだろう。だが未完なので、これがどう速水御舟的な作品になったのか、わからないままだ。空白がめだつ。この空白が、彼の存在の欠如のように思えて、さびしくなる。そしてまた彼の周辺の画家の作品の展示で、第一室は終わる。ミュージアムショップを通って第二室、というか「第三章 山種美術館と院展の画家たち」にゆくことになる。
 異世界と現実世界の狭間にあるようなミュージアムショップを通って。ミュージアムショップは普通は展覧会がおわってから、帰りに寄るところだ。たまに展覧会会場の外にあり、展覧会をみなくてもミュージアムショップにだけはいれるようなところもある。そう、それは展覧会の延長線上にありつつ、日常に属している場所のように感じられる。見せるためのものではなく、売ることが目的の場所だからだろうか。ともかく、そこではいったん何かが区切られてしまう。展示室の照明がいくぶん暗いのに対して、ショップは白く明るい、それもことさら違和感を増すのだろう。もっともそれがどうというのではない。ミュージアムショップにはいるのはそれでも楽しいから。だがここにくると、いつもそうなのだが、第二室へ行く前に入るときは、ひとまずほとんど素通りすることにする。そうすることで異世界の雰囲気をたもとうとしているのだ。あるいはまだ狭間にちかづきたくなかったのだ。
 第二室、ちいさい部屋だ。ここに速水御舟《炎舞》(一九二五(大正一四)年がある。炎の上で舞う蛾たち。この絵についてエッセイも書いたことがある。よりよく生きるために死の舞踏をふむ虫たちについて。この絵もまたわたしにとって特別な絵なのだ。…ということを、絵をまえにして思いだした。絵はけれども思っていたよりも小さい。わたしの記憶のなかにある《炎舞》は、もっと大きいものだった。たぶん存在感がそれほど大きいということなのだろう。マグリットの絵が実際のサイズよりもいつも大きく私のなかであたためられているように。
 炎がちらちらと、めまいを誘発するようにもえている。それは蛾たちを誘う生の意思のように思える。死の飛翔がうつくしいのは、それが生きるためのものだからだ。羽たちが色とりどりに舞っている。この絵もまた、わたしにいつもなにかしら、つよいものをもたらせてくれるものだった。
 (第三章のこの部屋にほかにどんな展示があったのか全くおぼえていない。リストとかみればわかるのだろうが、わたしにとって関心がなかったということだから)
 ひととき炎の前にたたずんだのち、最後にまた第一室のほうをざっと観に行く。なにか気付いたものたちを、あつめるために。そうしてかれらとの別れをおしむのだ。今度はミュージアムショップでの滞在時間がもう少しながくなる。とりあえず展覧会の展示はすべてみたあとだから。終わりにむかって、非日常から日常へ向かうための儀式の一環で行われている行為だから。今度は、さきほどよりも、この空間が親しげにみえた。いつもの展覧会終了間際の儀式的な場所に近づいてきたからだ。非日常から日常へ向かうための橋渡しの場。第一室を軽くみてまわり、さらにもう一度、第二室の蛾の踊りを観に行き、とうとうこれで、おしまいだ。本来の終点の場として、ミュージアムショップによる。日常へ、非日常からのささやかな土産をさしだすために。それはおまじないのようなものだ。本当はこうして書いていれば、展覧会にいったという非日常は日常にいるわたしになにかしらのものを渡してくれる。書くという行為が非日常だからだ。けれどもミュージアムショップで買ったものたちは、そんなわたしにある種の助けをもたらしてくれるのだ。もっとも山種美術館のミュージアムショップにあるものは、おなじみのものばかりだ。ここで気にいったものは、もう買ってもっている。速水御舟の展覧会図録、絵ハガキもそうだ。《翠苔緑芝》の黒猫のハンコやハンカチまで持っている。けれども《秋茄子》はどうだったか。前に観た時あまり感慨をおぼえなかったはずだから、もっていないかもしれない。そう思って買って帰る。《暖香》は…たぶん持っていると思うけれど、自信がなかった。いちおうこの二枚を買って、ようやく外に出る決意をする。
 …この文章は、おふねさんに会いにいってから少しずつ書いてきたのだが、今の段階でもうその金曜日から、一週間以上経過している。だから美術館を出てからどうやって帰ってきたのか、というより何を考えて帰ってきたのか覚えていない。絵に関してどう思ったか、美術館内でどう思ったかは覚えている。絵ハガキやうちにあるおふねさんの画集たちをひらくと、それがカギとなって、実物を観たとき、なにを感じたか、思い出せていると思う。あるいは感じたことを、言葉にうつしなおすことが、だいたいはできている(ぬけおちてしまったことはおそらくあるだろうけれど)と思う。絵ハガキはやっぱり大切な想い出のためのおみやげ、スーヴェニールなのだ。
 そう、美術館を出てから、やはり日常にもどってきてしまったのだ。だからほとんどなにも覚えていない。書くべきことがない、という意味もあるが、おぼえていることがあったとしても、おふねさんとはあまり関係がないことだから、ここには書かないという意味でもある。
 さきほどから、すこし妙な感覚がある。美術館という非日常のことを思い出して書いている、今のわたしは日常から離れている。書くこと自体がもともとそうなのだけれど、特に美術館に実際にいたわたしの非日常と、今こうして書いているわたしのあいだに横たわっている日常、たとえばトイレにいったりご飯を食べたり、そんなことだ──を、切り替えるとかそういった意識なしに、なんなくまたいでしまっている、非日常たちが違和感なくスムーズに横断している感覚、日常がすとんと、どこかで落ちてしまっている感覚、書くことで、すぐさま美術館に行っていた時に戻ってゆけるのを、不思議に思っている。それはおおむね心地よいことなのだけれど。
 スクリーンセイバーの絵に、山口華楊、酒井抱一を加えた。おふねさんの絵は、前からセットしてあるし、こうしてパソコンに向かっている机から《炎舞》や《翠苔緑芝》がすぐさま見えるようになっている。
 幻想は、こんなふうに近くにいてくれるのだということを、わたしはもっと思いだすべきなのだ。肝に銘じて。このところ、日常にかまけすぎていた。おふねさん、ありがとう。パスカル・メルシェにもお礼をいいたい。またべつの本を読んでいる。じつはさっきから、この文章を書いている途中で、いったん中断し、そちらを開いている。するとスクリーン・セイバーがまたあらわれる。《春宵》たち。世界は異世界でみちている。




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