Nicotto Town


うみきょんの どこにもあってここにいない


非日常的な、詩的な頭が贈り物で。


クリスマスに欲しいもの…。暇かな。
暇じゃなくてもいいから、こうして机に向かう気力がでるほどの…。
やはり、12月はバイトが忙しかった、いや、今もつづいているから、忙しい、なのか、
ともかく、けっこう疲れている。
疲れとともに、日常が浸食してくる。
頭のなかまで。
頭が日常に侵されていると、発想が散文的になってくる。
と、自分ではいつも感じるのだけれど、ニュアンスが伝わるだろうか。
非日常的な考え方がうかばなくなり、
日常のうらにあるものを感じ取る力が希薄になっている。
つまり非日常が詩で、日常が散文ということなのかもしれない。
日常=散文が頭を埋め尽くす…というほどの言葉もない。
ほとんどなにも考えずに、忙殺された、そこは空虚だ。

本もほとんど読んでいない、美術館もでかけていない。
テレビもニュースなど、日常的なものをすこしみる程度…。
それも食事時に。

この期間、
バイトの帰りや、買い物の後、湧水のある公園に何回か出かけている。
もうひとつ、いつもいっている、なじみのところがあるが、そこよりもほんの少しだけ
距離が離れている。
おなじ国分寺崖線状にあるのだが。
距離が離れているというか、家と逆方向になる。家─バイト先─買い物をするスーパーA─そのスーパーの裏手の湧水のある緑地─もうひとつのスーパーB─湧水をもつ公園、
位置的には、直線ではないけれど、こんな感じか。
家から最後の公園まで、まっすぐいけば自転車で10分ぐらいの近さ、せまい範囲だ。
わたしの生活圏はこんなものなのだ。
駅すら、めったにいかない。

ともかく、湧水をためた池のある公園へ。
心がそれを求めているというか、衝動にかられて、というか。
うつくしいものがみたいとか、非日常を感じたい、とか、そうした
ことなのかもしれないが、そこにむかうわたしは、そこまでの考えはない、
ただただ、池がみたいと感じるだけなのだ。
けれども、頭が散文的だからか、あるいは冬だからか…
その場所にいっても、なにかしみじみとしたものを味わう、ということには
ならないのだが。
通常のときなら、うつくしいものたちがわたしに語りかけてきてくれる、
その声なき声が、景色からしみだしてくるのを、
わたしはほんのすこしだけ、うけとり、そのことにより、みちて、
ひたされ、ほとんど至福すらかんじるのだが、
そうしたことが、起きない。
花のない季節だからかもしれない。
けれども、まわりに生えている木々が紅葉している。
こうしてみると12月というのは、冬ではなく秋のようだとぼんやりと思う。
晩秋。わたしのなかでは冬は1月なのかもしれない。
大寒もあるし。
湧水池は崖の下にある。
崖の上までは木で覆われている。山道のような傾斜、土で固められた斜路が伸びている。
あの崖を登りきるとなにがあるのだろうか。答えはしっているのだが、いつも
そんなふうに思ってしまう。
崖をのぼるとそこにはなにが拡がっているのだろう。
わたしのなかではいつも海がみえるイメージだ。
坂をのぼる。その向こうにはきっと海が。
海なし県で育ったわたしの、それは夢の光景だったから。
見通しがきかない、坂をみるといつもそれを思い出してしまうのだ。
なつかしさがどこかうれしい。

池には最近まで、枯れ葉や落葉たちが水面を覆っていたが
掃除されたのだろう。ほぼ一掃されている。
鯉が一匹。暖かい時期にはもう数匹いたように思うが
どこにいったのか。みえないだけでどこか川となったあたりにいるのだろうか。
そういえば、鯉の冬眠をみなくなった。こんなふうに泳ぐのだから、
やっぱり、まだ晩秋なのだ、とうそぶいてみる。

池は小さな川になり、排水溝のような場所を最後に、
いったん見えるという意味では水の流れが中断される。
ただ、以前、その中断された向こうで、なぜかカワセミの声を聞いたので
声をたよりにいってみたら、出合ったことがあったなと思い出し
さらに奥へいってみた。
また突然崖下に小さな川が。ああ、そうだったなと思い出す。
小さな川のすぐ近くに、それらの水が最終的に流れ込むだろう、仙川が流れている。こちらはコンクリートで護岸されていて、わたしとしてはすこし淋しい川なのだけれど。
この小さな川には、ほんとうに久しぶりに来た。カワセミを見に来て以来だから、数年ぶりではなかったか。
空がうつって水がずいぶん青い。

枯れ枝にムラサキシキブの紫の実が、
ドライフラワーのようにつぶつぶと付いている。
そしてあれはもしかするとカラスウリ。
つるになって、まわりに生えている木にからみつきながら、
赤い実をたらしている。
こちらはもっともっと、ひさしぶりに見た。
中学生の時以来かもしれない。
数年ではなく、数十年。

書いたから、散文的な頭が詩にすこし近づいたのか…。
それとも、やはり水やカラスウリが、わたしに囁いてくれたことが原因なのか。
あの場では、よくわからなかった。うけとるわたしが散文的だったから。
いや、彼らはいつも、そこにいる。
そこで、変化し、かれらの時を生きている。
そうして接してくれるのは変わらないのだ。
言葉が、彼らとの邂逅を詩的なものだったのだと教えてくれる。
くれたのだ、と多分。

ほしいのは、詩的な頭だ。





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