Nicotto Town


うみきょんの どこにもあってここにいない


現世も夜の夢もまこと、だから、きっとまた逢える


 前回の日記で、愛猫べべの夢のことを書いた。あまり彼女と夢で逢わないような気がする、いやインフルエンザのときに逢っていたような気もすると。
 彼女がいなくなったのが二〇〇四年だからもう十二年になる。けれどもそんなに経っているように思えない。私が彼女のことを想っているからだろう。彼女は想う限り、わたしのそばにいてくれている。
 前回の日記を書き終えて、寝床に入った。その晩に、べべの夢を見た。わたしは普段ロフトベッドに寝ている。これを書いているパソコンはベッドの下にあるので、梯子をつかって上にあがれば寝れる。そう考えると、行動としても、書くという行為と夢、眠りはとぎれることなく繋がっているということになる。これに気付くと、なんだか楽しい。夢や眠りは、もともと書く行為にちかしいから。江戸川乱歩の言葉を思い出す。「現世は夢、夜の夢こそまこと」。彼は夢見がちな幻想にふける子どもだったという。書いたものの世界、想像世界こそがまこと…、わたしは彼のこの言葉が好きだ、喉にひっかかった骨のように大事に想っているが、けれども、それだけがまこと、だとは思っていない。現世も夢ならば、夜の夢とつながっている。どちらもまことなのだ。
 そんなことを考え、ネットで検索したら、こんな歌に出逢う。

 古今和歌集 巻第十六 哀傷歌 作品八三三

 藤原敏行朝臣の身まかりける時に、
 よみてかの家に遣はしける      紀 友則

 寝ても見ゆ寝でも見えけり大方は
 うつせみの世ぞ夢にはありける

 寝ても、寝なくとも、亡くなったあの方の姿が見えます。およそ現世のほうこそ、夢なのでしょう。
 これも、やはり夢と現世はつながっている、ということを教えてくれるような気がしてしまう。どちらも夢だからこそ、亡くなったものたちと会うことができるのだ。
 もっともやはり、この歌も、わたしが感じていることを代弁してくれている、というわけではないのだが。
 「空蝉」(殻から抜け出て飛んで行った蝉という魂とも取れる)という「世」にかかる枕詞を使っていることで、あの世に行った者の方こそが実体で、残された自分たちの方が夢なのではないか、というニュアンスも込めてあるらしいから。
 あるいは、こんな歌。

 うたゝねに恋しき人を見てしより夢てふものはたのみそめてき

 (古今和歌集 巻第十二・恋二・小野小町「夢の歌三首連作その二 題知らず」 作品五五三)

 というか、元々この歌は知っていたので、それの正確な出典を知りたくてネットで調べていたら、先の歌に出逢ったのだった。わたしは亡くなった父やべべの夢をよく見る。その度に、どこかでこの歌が、頭に響いていたのだった。厳密には、この歌の意味も、わたしのなかで、おそらくわたし流に解釈して、温めているに違いない。たとえば、恋しい、というのとはちがう。けれど、大切な、やはり愛しい、彼らと、夢で逢えることが、それでもうれしいから、という意味で。

 ああそうだ、べべの夢を見た。そのことが書きたかったのだ。
 ロフトベッドで寝ていたら、はしごをかけのぼったのか、ジャンプしたのか、べべがドスンとわたしの顔近くに現れた。昔もそうだった。そんなふうに現れるか、もしくは最初からベッドに寝ていて、わたしたちは一緒に眠ったものだった。足元にいたり、腕まくらをしたり。わたしのお腹の上で眠ったり(これは少し重いのだが)。なつかしいなと思いながら、腕まくらで眠っているべべの感触を確かめた。わたしは夢だとなかば知っていた。けれども、ひさしぶりにべべにご飯をあげて、トイレの世話をしなければいけないと思った。それをしたら、目が覚めてしまって、べべはどこかに消えてしまうかもしれないけれど、お腹もすいているだろう、トイレも汚いのはいやだろう、そう思って、ベッドの上にべべを置いて、ご飯やトイレの様子を見に行く。もう長いことドライフードも買っていない、うちにあるのはだから湿気ているだろう、賞味期限も切れているかもしれない、大丈夫だろうか。トイレは…、砂を変えたおぼえがなかったが、比較的きれいだった。ああ、もう、彼女にはほとんど必要がないのかもしれない。それがかつてと今のちがうところなのだ、わたしはそんなふうに思いながら、ご飯とトイレのチェックをしていた。かつて、生きていた頃と、今とはそんなことが違うのだ、そこまでは言いたくなかった、それを飲み込むことがどこか哀しかった。わたしは世話がしたいのだ。それもふくめて、彼女と一緒にいたいのだ。
 トイレとご飯のチェックをしてから、おそるおそるロフトベッドに戻った。べべはベッドにいるだろうか。そうではない。べべは今、夢のなかでご飯をたべているはずだから、もう起きている私には戻ってこないのではないか、そんなことを思ったと思う。そう、夢を見ている筈なのに、わたしは目を覚ましているつもりだった。実際、いつものベッドのなかで、目をあけていたような感覚があった。もう目を覚ましてしまった。べべにもう今夜は逢えないのではないか…。
 思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを
(古今和歌集 巻第十二・恋二・小野小町「夢の歌三首連作その一 題知らず」作品五五二)
 知っていたのに、目を覚ましてしまった。だってご飯を食べないとお腹が空くじゃないか、トイレだって汚いのはいやだろう…。脈絡がとおっていないようだが、夢のなかではきっと筋が通っていたのだ。ベッドから降りて、ご飯やトイレなどの日常的な行為をする。そのことは通常なら夢から覚めることだから。
 ほんとうにいつもみたいに、現実のなかでベッドの中で、のように目を瞑っていた。するとまたべべがどしんと、けれどもかすかな音をたてて下からやってきた。枕元にきたのだ。わたしはおそるおそる目をあけた。ほんとうにどれが夢なのかわからなかった。べべがいた。私の顔近くに彼女がいた。頭をなでた。そのまま背中もなでることができた。べべは現実にもいてくれた。これでは今も生きているのと変わらないじゃないか、こんなことがあって、いいのだろうか。目をあけても、夢から覚めても、彼女がいる…。いやこんな僥倖は続かないだろう。だからこそ、夢なのだ。まことなのだ。
 わたしは夢のなかでまた目をとじた。べべは見えなかったが(だって目を瞑ったんだもの)、まだ気配が感じられた。少し移動して、今度は足元にいるようだ。足をのばせない、なつかしい重み。わたしはそんなふうに今度はほんとうに眠りについた。そんな気がした。いつもの、いや、かつてべべが生きていたときのように。穏やかな眠りだった。おそらく目をさましたら、今度はリアリティがあるという意味では、べべはいないのだろう。それもどこかで知っていたけれど、概ねやさしい眠りだった。それでもわたしに彼女はいる。わたしのなかで、こんなふうに彼女は生きていてくれる。たまに温かみのある身体をたずさえて。ご飯もたべ、トイレもしにきてくれるのだ。
 そんなふうに思ったかどうか。今度は朝、本当に目を覚ました。枕元にかざってあるべべの写真を見つめた。彼女のぬくもりが、つたわってくる。




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