Nicotto Town


うみきょんの どこにもあってここにいない


わたしの旅は…その2(再興第100回院展)


 思いがけず横浜そごう美術館の「再興第一〇〇回 院展」(二〇一六年二月二十四日─三月二十七日)のチケットが二枚手に入ったので、土曜日に出かけてきた。
 これは明治三十一年に岡倉天心により創立された日本美術院(院展)に端を発する院展同人らの新作、受賞作、神奈川ゆかりの作家の入選作などからなる展覧会。
 これもわたしの側の問題なのだけれど、たぶん、あまり出会いはないだろうと思って出かけた。もはやわたしの欠点といっていいのだが、どうも現代の絵に、ふるえることがほとんどないから。
 それでも、絵たちに触れるのは、今のわたしには必要なことのように思えた。そうした環境に身をおくのは。
 ほんの一か月前ぐらいに出かけた横浜。たぶん電車に乗るのも、それ以来。いかに電車に乗ってないか。一か月前よりも逆に寒いような。外は曇り。電車ごしに見える、あの大きな川はなんなのだろう。立て札の名前を確かめようと思って、いつも失敗してしまう。その川も、曇り空だったからか、雨のあとだったからか、灰色に濁っている。
 展覧会。思っていたよりも心地よかった。《不忍》(同人・手塚雄二)とある作品。一面に蓮の花托と茎。折れ曲がったものも。そこに蓮の花の気配はみじんもない。茶色い塊たちが病葉のように点在した水面があるだけ。だがそこに描かれた世界は美しい。わたしは実際に、上野の不忍池で、花托だらけの、蜂の巣のようなそれと、腐った葉がおちた水面を見たことがある。わたしはそこに美を感じることはなかった。よどんだ池、ゴミすら浮いている池。せいぜい寂しさを感じたぐらいかもしれない。だが今ここにある絵は、その景であって、それとはちがう。わたしが感じなかった美が、ここには存在している。ここから美を織りあげなければいけなかったのだと、感慨深く眺める。この画家の絵は、ちなみに出口近くにある「再興第一〇〇回院展記念 表紙絵出品一覧」にもあった。《吉実》(二〇〇七年「第九十二回展」)。ホタルのように光を放つ美しい実だったが、枯れた蓮の絵と、同じ画家だと知り、妙に納得した。
 そして《海霧》(同人・清水達三)。こちらは解説をみたけれど、どこの海だか忘れてしまった。海に霧がむせぶ、明け方。世界はしんじられないぐらいにオレンジ色に染まっている。日の出から十五分ぐらいたった頃か。水平線と雲のすこし上に明るい太陽。海に岩と漁船。太陽が海に明るい道を作っている。
 どこの海だったのか。あまり解説を読みたくなかったのだ。多くは画家自身の言葉で、それがどうも、逆に絵に対して、みる眼に先入観をもってしまうようで。
 けれども、この絵はわたしにとってリアルだった。海の匂いがつたわってくるようで、太陽がまぶしかった。日の出からすぐの太陽も、直視するにはまぶしいことをわたしは知っている。そして海霧のひんやりとした空気とにじんだような世界。わたしは海霧は実はみたことがないかもしれない、けれど、この絵のような海を見たことがある…。それがリアルということだった。それが画家の目を通して、わたしに伝わったということなのか。 霧の湿った空気とひんやりとした朝のまぶしさが心地よかった。
 先にもふれたが、出口付近に表紙絵出品一覧があった。これは小さな絵たちで、院展の図録の表紙絵たちとのこと。第四〇回(一九五五年)から第九十九回展(二〇一四年)までのものがあった。そのなかに、好きな奥村土牛の作品があったのがうれしかった。《向日葵》(一九七五年・第六十回展)。優しく力強い、まぶしい向日葵。
 帰りは二子玉川で食事をして帰った。おいしくなかったので省略。だがこうした経験も必要なのだと思う。
 帰ってから、『忘れられた巨人』を読了。さて、わたしの旅はどうなるのか。




月別アーカイブ

2024

2023

2022

2021

2020

2019

2018

2017

2016

2015

2014

2013

2012


Copyright © 2024 SMILE-LAB Co., Ltd. All Rights Reserved.