Nicotto Town


ふぉーすがともにあらんことを、あなたにも。


広がる世界と狭まる世界~客観視と主観的な見方~

広めの世界と狭ばる世界

まあ、いきなりなんのことだか分からないかも
しれませんが~。

今日は価値観・視点についてです。

このタイトルの意味は、
見えている世界と見えていない世界、

という意味です。

いきなり本題ですが、

人間の脳は知っているものしか
認識できないようになっています。

知っているものと似たようなものを
見つけると、ある意味類推のようなものが
起こって、

分類してなんとなく判断するようにできています。
(ゲシュタルト能力←以上、苫米地氏の著書からの引用)

つまり、知らないもの、いままで認識したことがないものは
理解・認識・解釈できないようになっているのです。

ついでにいうと、記憶は消えることはないので、
(←これまた苫米地氏の著書からの引用)

その記憶を元に、脳が働いて、
認識したもの・見たものを

認識して、理解する訳です。
(以上、引用おわり)


さて、人間の脳は
自分の認識している世界しか認識できないように
なっているわけですが、

主観で判断しているのが
基本的な立場になります。

もちろん、客観視も可能なのですが
完全に客観視するのはなかなかできない、

難しいことでもあります。

よく、ベタな議論になってしまいますが
主観的な立場、
客観的な見方で、

という議論がありますが、

良く考えれば人間一個しか脳が
ないので(←っていってしまったら野暮かも
しれませんが)

所詮客観視と主観的な見方を使い分けることは
不可能です。というか、それに近いです。

人間、自分で何が客観的で何が主観的なのかを
自分で判別するのはほぼ不可能に近いので、

他人に見てもらうしか方法がないのです。
そしてそれは他人の価値観の介入・侵入という
結果を招きます。

他人への依存が、洗脳状態をもたらすのです。

つまり、何事も自分で判断しなければならない、
といった具合のことですね。

基本的に、(また苫米地氏の本からの引用に
なってしまいますが、)

自分の世界は自分にしかないわけです。

つまり、追加で付け加えると、
その人の価値観はその人にしかない
訳です。

言い換えれば、
その価値観は絶対(その人の中限定では。
語弊のないようにいっておきますが、社会的に
というわけではありません。)

とも、言えるわけです。

つまり、主観視・客観視の判断は自分で
セルフジャッジしていかなくてはならない
というわけです。

なんだか小難しくなってしまいましたが、
主観が広がる世界・で、
客観視が狭まる世界ということに
なります。

ちょっと分かりづらいですが、
見えているものは、
あくまでも主観の世界でしかない、
という意味です。

日本語では客観視はよく、

「第三者的な視点で、冷静に」

という意味で用いられます。

つまり、第三者的な視点で、
冷静に物事を観察できれば、

客観視したことに成り得るのです。


一方、人間は他人と見えている世界を
共有することは難しいので、

客観視は主観的な見識に比べて、
どうしても狭くならざるを得ません。

つまり、客観的な見方をしたつもりなのに、
実は狭い見方しかできていなかった、
という具合にです。

ようは、冷静に自分を少し後ろから
眺める見方で物事を観察できれば、

客観的に冷静に物事を観ることが
できるわけです。

自分の感情に振り回されずに
如何に感情をコントロールして

その物事の事実自体を見極められるか、が
焦点になります。

そういう意味で、そのような事象を
客観的な見方、と呼ぶことができるかも
しれません。


話は転換しますが、
人間は脳のフィルタリング機能によって、
自分に必要な情報しか認識しないように
なっています(苫米地氏からの引用)

そこで、今自分にとっては必要のない情報
(見る必要のない、と勝手に思ってしまって
いるもの)については、見落とす・認識できない訳で、

それがいわゆるスコトーマ(盲点)になってしまう訳です。
(以上も苫米地氏の著書からの引用です。あんまり引用
してしまうと著作権で訴えられてしまうかもしれませんがw)

つまり、盲点=見えていない世界です。


話は本題に戻りますが
自分の(主観の)世界は見えているからこそ
広く感じられますが、

客観的な見方、というのは
非常にナイーブで難しいものでも
あります。

ちなみに、何が主観的で何が客観的だというのは
他人には判断できません。自分にしかできないものです。

(他人の判断は容認しないようw)

見方の話をしていると、よく量子力学の話に
なってしまいますが、(ここでは話がややこやしくなるので
引用を避けますが)

自分の見方は全部主観であり客観である訳です。
すべての解釈は、見えている世界は全て自分の
認識から成り立っているというのが前提です。

そういう意味では、(余計かもしれませんが、)
苫米地英人氏の著書で書いた功績は非常に
大きいものであるかもしれませんね。
(事実大分参考にさせてもらっています)

話は余談ですが、
広がる世界と狭まる世界というのは、
量子力学・あるいは宇宙物理学からの
引用です。

見えている世界、見えていない世界の話も
量子力学や分析哲学部門からの応用です。

これらの考え方は、全て一個人には一つの世界しか
ない、という見方から解釈されています。

それから引くと、
他の見方を自分の価値観のなかに如何に導入するか
が重要になってくるのかが、重要になってきます。

これ以上バラすと苫米地氏に著作権の件で訴えられてしまうので
引用を避けますが、詳しくは苫米地氏の著書をご覧ください。


個人的解釈になりますが、
一つの人間には一つの宇宙が広がっています。

一つの認識の世界であり、一つの知識・見識の世界に
なるわけです。

一人の人間の解釈する世界は無限大ものです。
その中で、どう生きるかは個人個人一人一人の自由な
訳です。

狭い解釈・価値観に捉われることのないよう、
自由に楽しく生きられるといいですね。

人間は、その宇宙のなかに於いて、
非常に自由な存在なのです。

何かを手に入れるのも、何かを得るのも
自由なのです。

そういうところで、今日の話を終えたいと思います。

長い文でしたが、読んで下さったかたありがとうございます。

感想・コメント等ありましたらお待ちしております。

Bye.


アバター
2013/03/01 14:10
ウサギさん>

コメント感謝ですw
個人の認識は、個人の中でのみ成り立っている。
つまり、個人一人の認識は、個人一人だけのもの(=個人の集合ひとつひとつに、認識宇宙?がある)
っていったほうが早いですかね^^;

つまり一人一人に宇宙があるっといった具合ですb

認識でしか物事を判断・判別しないのが
分析哲学などでは一般的になっているようですねw

マルチバースに関しては、量子力学とか物理宇宙専門分野の話なので
よく分からない部分も多いのですがb
アバター
2013/03/01 13:15
結局、実存の話になってしまうのですかね。
世の中には主体しか存在せず、すべての客体も主体の認識内のうちに存在するのみである。。。
つまりすべては主体のみ。

実際の宇宙もいくつもあると言いますね。
人間の精神もまた宇宙とフラクタルの関係にあるとすれば・・・おもしろいですねー♪




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