Nicotto Town


ふぉーすがともにあらんことを、あなたにも。


予防線と危険性(犯罪)

いきなり、休日のタイトルに申し訳ないが
本稿は戦争と犯罪についてである。

なにをいきなり荒唐無稽な、と
思われるかもしれないが、

戦争と犯罪についてネットにおいて身近に知っておく、
という点については何の差し障りもないと思う。


本稿のタイトル「予防線と危険性」についてだが、
戦争(犯罪)とその予防線の可能性について触れたいという思いから

つけたタイトルである。

つきましては、ネットを利用する方々については出来ればお付き合い
願いたいと思う。


*きっかけ**

そもそも、予防線と犯罪人というテーマを選んだきっかけは
近日夢で見た「犯罪について」である。

こういうテーマを書くのははばかられるかもしれない。
だが、知らずしてそのことについて考えながら過ごすことは出来ない、
という観点から、このことについて考えを深めたいと思い

それについて記すことにした。

犯罪とは、そもそも禁忌を犯すという観点において
やってはいけないことを平然と為す様、のことを指しているものと
思われる。

かといって、躊躇していればそれは犯罪ではないかといったら
それはモロ犯罪である。

躊躇―平然同罪といった考え方が、本稿の主旨としてはある。

小難しい話はさておいて。

犯罪について考えるきっかけになったのは、
夢の中で見た犯罪について、である。

車を強奪して挙句の果てには人を殺す(?)といった内容だったが、
記憶のあるうちに、予防線と危険性について書き記したいと思う。

それで本稿のキー(?)をとった訳である。

私は、車を奪うわけでも一方的に人を殺すという訳でもなかったのだが
その犯罪を犯す側、にいたのは間違いのない事実である。

語弊のないように言っておくが、あくまでも夢の中でのシミュレートという意味
である。間違っても通報などしてもらいたくない、と言っておきたい(笑)。

さて、その考えた内容についてだが
犯罪について言えば、その実行についてもさることながら

「知らないこと」についても同罪かそれ以上の罪になり得ることをまず明確に
しておかなければならないだろう。

まず、悪を定義するならば
犯罪を犯すもの、あるいは犯罪を企図するもの
その状況に置かれた者などが挙げられる。

ここで重要なのは、
状況そのものが、その人を犯罪にしてしまう要素を十分に含んでいるという
点である。

間違っても、悪だけを一方的に定義するのは良くないが
ここで言う普通(まとも)とは悪の反対側を指すもの、とさせていただく。


*犯罪とは**

ここで言う犯罪とは、
禁忌を犯すもの、とさせていただいたが

それ以前に日本(に限らず)及び世界では、
戦争・犯罪についてあまりにも多くの偏見がまかり通っている、
という点についてまず触れておきたい。

映画・メディア化する時点においても、戦争・犯罪というものに対する目を
一般人から背けさせてしまうという点においても、それは重罪と言うべきに値する
行為である、ということは前もって言っておかなくてはならない。

ようするに、描くものも犯罪ならそれから目を背けさせるものはもっと重罪という点
が存在する、という訳である。

戦争映画では、「ブラックホークダウン」が有名だが
かの映画以外では、戦争(人殺し)について詳細に描いた映画・メディアは
無かったように思える。

戦争は所詮人殺しである。

基本的に、戦争・犯罪について映画で肯定的に描くこと自体あってはならないの
だが、

基本的にメディア作品などでは、
アクション映画といタイトルにかまけて平然と人殺しと犯罪を描いているのが常で
ある。

ようするに、戦争・犯罪を映画といえど正当化してはならないというのが
主な意見であるが、

基本的にメディアによってそれから目を背けさせてしまうこと自体、
一級戦争犯罪人並みの重罪である、ということはまず最初に述べておかなければ
ならない点だろう。

今に限らず、メディアでは
戦争=犯罪、 戦争・犯罪=目を背けるべきであること
アクション映画での犯罪=正当化される、

というのが一般的な状況だろう。

大変哀しむべき事態である。
これ以上の猶予は与えてはならない、というところである。

さて、映画のなかで正当化されつつある人殺しについては
アクションなどのメディアはすべて偽善だ、という議論で片付いてしまう
のであるが、

問題は、暗に正当化されつつある偽善と犯罪(人殺し)についてである。

ついでに、もう一つはっきりさせておくことがあるとするならば
犯罪とは人殺しに限らず、ある人の存在そのものを消し去るということ自体

犯罪(=人殺しと同罪)と取らなければならない、ということについてまず
述べておかなくてはならないだろう。

人そのものがどう定義できるかは、
苫米地英人氏の著書(未来を予見する力)に譲っておきたいところでは
あるが、

簡単に失礼して要約すると、
人そのものは、情報空間における存在だけでも
人として定義できる(物理的な肉体に縛られない)

ようになってくるというのが
かの本の主旨であったが、

ようするに情報空間の存在をそもそも人として定義付けるなら、
その人の存在を否定することも犯罪(人殺し)に値する、というのが

本項の主旨である。

全体の主旨としては、
 
 


①物理空間に限らず、情報空間の存在を否定するだけでも殺人に問われる。

②犯罪・戦争から目を背けさせるだけでも、立派な重犯罪である。


という以上の二点(その他諸々)であるが、

今とりわけ急いで議論する必要があるのは、
戦争・犯罪から目を背けさせることが平気で暗に進められている、という点である。

日本ではなおさらその点が顕著なのであるが、
電通によるメディア支配は戦争犯罪人に値するぐらい重罪と言っていい点について、
である。

単純に言えば、

①メディアで戦争・犯罪が否定される。

②メディアで戦争・犯罪が肯定化される。

という以上の2点が平気で行われている、という点についてである。


簡単に実例を挙げるとすると、

メディアでは一般に戦争・犯罪は忌み嫌うべきもの、というイメージが流布されている
にも関わらず、

映画などのメディア作品では、暗に犯罪を肯定化する描写・イメージ戦略が取られている、という点である。

これについては、ぜひメディア作品を見て確認してもらいたい点であるが
電通に限らず、日本に限らず世界ではメディアにおいて

このような洗脳がまかり通っている、という点についてはまず述べておかなくてはならない。

暗に犯罪が正当化されてしまっている、というのが日本および世界のメディアの現状なのであるが、

その点その影響はゲームなどでも顕著である。

つまり、平素なゲームにかまけて戦争・犯罪(人殺し)が正当化されている
という点について、である。

ぷよぷよから、バトルフィールドまで

ゲームという飾り名にかまけて、戦争を正当化しているという点については
なんのかわり映えもない、ということはまず明確にしておかなければならない。

つまり、戦争・犯罪を知らずしてその人殺しを正当化するという行為が平気で行われているのである。


(続く―――)





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