Nicotto Town


ふぉーすがともにあらんことを、あなたにも。


フラクタル(相似)の行き先

フラクタルとは、相似という意味です。

つまり、同スケールを以て

違うものを認識できるか、ということなのですが

人間の認識は、違うもの同士を複数結びつけて
記憶するクセがあるようで

人間の認識は記憶から成り立っているので、
「認識は結びつけ」で出来ている と言えます。

つまり、フラクタルなことはそのうちのひとつ
を認識できれば

その結びつけ上にある系譜のものすべてについて
知ることができるか

ということなのですが

どうなんでしょうか?

式で表すと、こうなります(分析哲学の数式ではありません)

ax-2y+x-2y=0(ゼロ和)

つまり、-2yの項がフラクタル関数なのですが

axは事象、xは現実(関数)です。

したがって、a は時間係数になります。

(多項式・物理速度式のt (time)と一緒です。)

つまり最終的には、計算上

axにxを足したものが残るのですが……。

右辺は0なので、解き方としては……。

すべてはゼロ曲線上なので、ゼロ和(つまり循環)を
表しているとも言えます。

難しいですが、

中学校までの知識で順番に解くならaxとxを無理やり足そうとして
つまずくのですが

axとxのxは同じものなので足せると思いがちですが

式としての項は違うので足せません。

最終的にゼロ和なので足す必要はないのですが、

まとめるとするならば

ax+x=0 ということになります(-2yは省いた)

数学の本を出して、ax+x=0について調べたいことなのですが

問題はこの式自体にあるので、解く必要はありません。

ないのです。

ax+x=0についてみると

事象(ax)とx事象的現実(x)を足すと、

ゼロ和(循環)になるわけですが

その存在自体は全体になんら影響を及ぼさない上

ある種の事実として成立していることが分かります。

また、フラクタル関数(-2y)についてですが

(勝手にフラクタル関数としましたが)

axとxの両項について均整を取るためあえて

両方からマイナスするという形をとっています。

詳しい解釈はお任せしますが。

フラクタル(相似)にするためにあえてマイナスして
いるのです。

(プラスにしないのは現実に認識は付帯し得ないからです)

つまり、フラクタル関数(-2y)は

認識と受け取ればよい訳です(内部会話ですすみません笑)

要約すると、

事象(時間+現実)+現実=ゼロ和

(事象-認識)+(現実-認識)=循環

(事象+現実)-認識=循環

まぁ、要約すると

全体(循環)は事象、認識などで成り立っていると
いうことなのですが

分析哲学の考え方で言えば

そもそも現実自体個々の認識で成り立っているので
事象や現実についての式はムダ

つまりゼロ和でいいわけなのですが

問題はフラクタル(相似)という言葉自体が

そういう現象を表しているかということなのです。

話を戻しますが、

そもそもの問題はフラクタル(相似)についてでした。

つまり、違う同士でもひとつの関連する(可能性のある)

事象を認識すれば、フラクタル(相似)なもの同士は同時に認識
可能か?ということなのですが

式を見ていく限りでは、事象はすべて全体に包摂される

つまり現実は個々の認識で成り立っていることはさておき

認識も事象もすべて全体に包摂される

ということなのです。

(包摂=上位概念にまとめられる、の意味です)

詳しい話をすると、

全体自体がそもそも個々の認識それぞれを指しているので

それを言ったら元も子もありませんが

ここで言う全体とほ

空(くう)の概念を表しているのです。

分析哲学は、そもそも

事象を数式で解析することをそのスタイルとしているのですが

包摂半順序という考え方では

物事を概念の順序で分類します。

つまり犬→哺乳類→生物→存在といった具合に、

概念の高いほうへ抽象度を上げていく(この上へ上がるという概念が

抽象度です) 作業をするわけですが


ここで言いたいのは

空にすべて包摂される ということなのです。

つまり、仏教などでいう 空 がすべての概念の

上位概念なのですが……(ここからは苫米地英人氏の著書をお読み下さい)

きりがないので……

とにかく全体が空を表している、というのは
お分かりいただけたと思います。

続いて、フラクタル(相似)についてなのですが

人間が認識上記憶する上で、

何か違ったもの同士を複数結びつけて覚える性質がある以上

似たもの(の概念)を一気に覚えられるか

ということなのですが

つまるところ

まずその「似たもの」の概念をすべて一個一個知っておく必要が
あるのです

(人間は知らないことは認識できません)。

つまり、その全部を知った上での

ゲシュタルト(概念)の組み立ての作業なのですが

話をまとめると

思考をするときに連想で

「あれもこうだったらこれもこうじゃないか」的な現象を指しているわけです。

つまり、要約するところ

似たような事象であれば

同時に認識でき

かつ

同じような判断メカニズムで処理することが可能か

ということなのですが

現実が個々の認識によってそれぞれに成り立っている

というところから導線を持っていくと

個々の認識で成り立っている以上

単純に解明しなくてもいいんじゃないか

という「壁」にぶち当たります。

元も子もありませんね。

単純に解釈というのはその時それぞれで、

これしかないというのは概念上存在しません。

また、解釈(学問)は常に現実の十歩か十二歩後をいくものなので

都合のいい解釈にあわせていればいいわけです。

(それが整合性を伴っていれば)

あくまでも学問はその時の解釈なわけです。

それから決壊させてしまうと

1からやりなおしなので

一度決めた仮定は、あるものとして進めるのが
一応決まりみたいにはなっているようなのですが。


話をまとめると、

ここまでの解釈では

①フラクタルな事象については
個人の認識(全体)に包摂され得る。

②個々の認識それぞれに現実があり、
現実は個々それぞれにある(違う現実が存在)

③すべての概念を包摂するのは空である。

ということになります。

さてここから結論を出すわけですが

(まとめてから書け、ということなのでしょうが)

ここから導線をひくと、

関連した事柄はひとつの事象として認識し得るので
ひとつながりをもったゲシュタルト(概念)とすることが
可能

ということが言えると思います。

つまり、一つ上の概念について話していたことになりますが

何でも抽象度が上がれば一つのまとまった概念として認識が可能

ということが言えると思います。

お分かりいただけたでしょうか……。

なんか素っ気ない結論でしたが、

早い話
抽象度を上げると関連する事柄(フラクタル)であれば
ひとつのつながりとして認識可能

ということなのです。

分かった方も分からなかった方も
読んで下さって感謝、ということなのですが……。

お疲れ様です。お読み下さって感謝致します。

というところなのです。

くだらない抽象空間にお付き合いいただき
ありがとうございました。


はぁ、疲れた……(笑)


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