Nicotto Town


ふぉーすがともにあらんことを、あなたにも。


義憤

義憤は大まかに言うと、

正義が捻じ曲がった狂気と言える。
あるいは、恐怖が捻じ曲がった狂気と言える。

正義が捻じ曲がった恐怖とも言える。

義憤にかられるということは

近親のものが襲撃される
また傷害を負わされた場合、

正義に似た、復讐の意図を
持つということである。

あるいは、復讐で物事の
バランスが取れると思われた場合、

一方的に復讐行為に出る場合も指す。

復讐というケースの場合、
仲間あるいは家族が義憤の対象に
なり得る。

直接の利害関係がない場合は、
例え町娘であっても義憤の対象には
なり得ない。

ただ、力の誇示という行為を
含んでいるだけなのだ。

ということは、
仲間の復讐という形でしか
義憤は達成されない。

長年の鬱憤を晴らす形で
復讐を達成しても、

私的な理由になった時点で
義憤とは呼べないのである。

ここではそれを、
私欲による復讐と呼ぶ事にする。

人の復讐に際しての感情には
大きく二つある。

ひとつは、敵に対する恐怖
から来る保持欲。

もうひとつは、
襲撃に関する縄張りの保持欲である。

どちらも過去に対する執着と呼べるが、
襲われたことで発生した恐怖経験を
埋め合わせる目的で

起こるのが
復讐という概念であろう。

直接権益に関わる損害を負ったからといって、
直接身体にかかわる損害を負っていなければ

それは直接的な復讐の理由にはなり得ない。

もっとも、情報空間だけでのやりとりなら、
高次機能を持つ人において
縄張り系の復讐を試みることは
可能である。

(直接影響しない範囲で、
なんらかの復讐を行うことは可能
という意味である。)

もっとも、それは情報という
インターフェースが必要になるのは
明らかだ。

どっちにしろ、
復讐はなんらかの損害に対して
行われるものであり、

一方的な場合は
襲撃とみなされる場合が多い。

もっとも、歴史的に見れば
泥仕合になることが多いので、

復讐であろうと襲撃とみなされる
場合が多い。

だが、ここで取り扱うのは義憤であって
復讐はその部分定義に過ぎない。

もっとも、復讐が義憤につながるのは
明らかである。

義憤という感情・行為は
以下の点で有効である。

近親者の復讐を晴らすため。

恨みに対して復讐するため。

どちらもテリトリーへの攻撃に
対する復讐であるが、

狂気的な正義(ここでは偽善)
を伴う、

形式的に乗っかった形
(復讐行為に動機が乗っかった形)
で行われるのが

義憤を伴う復讐である。

この場合の復讐は、
未遂を伴う。

完遂されなくとも、
復讐を達成したと

みなされる場合も
あるからである。

行為だけで復讐が
達成される場合である。

もっとも、そのようなケースでは
民族的大戦の渦中である場合が多い。

その復讐という行為は、
いずれ他者による襲撃という形で

達成されることになる。
他のものにやらせただけなのだ。

いずれにせよ、
復讐という行為自体は
混乱を招きやすい。

歴史的にみても、
復讐は復讐を招く場合が多いのだ。


義憤自体は、

表に出ない感情の場合が多い。
そのような場合、多数のケースで
目的を隠す場合が多いからだ。

冷静な考え
(集団で復讐する、など)が
ない場合、

一人で復讐に駆られる場合が多いからだ。

もっとも、集団で復讐を達成する場合は
義憤とは呼ばれないだろう。

それはただの復讐であって
個人の感情は関係ないからである。

集団というものは、
時に感情を持たない。

それがたとえ、
個人の感情・動機に始まるものだと
しても、だ。

人間は集団としての冷静さを維持するために、
集団として行動する場合は感情を隠す場合がある。

俗に集団心理と呼ばれるこの現象は、
集団としての維持を保つためのバイアスであり

個人の感情を維持するための
ベクトルではないのである。

つまり、人は集団になると
無血になる場合が多い。

冷徹とも言える。
狂気が冷静さになるので、

場合によっては冷徹なことも
成し遂げてしまうのだ。

もっとも、この場合は紛争などの
全体的狂気が絡んでいる場合が多い。

冷静な状態で、
集団的狂気(集団心理)は起こり得ない。

もっとも、深い集団洗脳下では
それは可能である。

大衆心理操作によって、
そのような集団心理を引き起こすことも
可能なのだ。


個人の冷静の範囲において、
義憤は間違った感情と言える。

正義に似た動機に狂気という理由が乗ったとき、
義憤は起こり得る。

いかなる場合も、義憤は正当な動機に
なり得ない。

形を変えた復讐であって、
それは正義にはなり得ないのだ。

正義とは、大衆での公平さを指す。
それが大衆の中において
よしとされる場合、

形式上正解とされるものであって、
実は大衆のエゴであり
少数派は守れないことが多い。

自己中心的な主張において
動機とされる場合が多いのであり、

根本的に正義が何を指すかといえば、
ただ動機を正当化しただけのものである。

いかなる場合も動機が正当化され、
かつそれが主張として通る場合はない。

認められるのはあくまでも
主張であり、

動機のほうではない。

動機が正当化されるのなら、
この世には論理というものが
存在しなかったであろう。

義憤というのは、
時に自分勝手な動機も指す。

動機が理由になるのなら、
無理も理由になり得る。

恐怖下ではそれが正当な理由に
なるのだから、

不思議な現象である。

いかなる場合も、
正義は動機になり得ない。

そこにあるのは、
恐怖と危機だけである。





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