Nicotto Town


ふぉーすがともにあらんことを、あなたにも。


狂気と倫理

恐怖という感情は、
多くの場合狂気を引き起こす。

あるいは、
義憤という復讐を引き起こす場合が多い。

もちろん、行動が停止するという
現象も引き起こす。

全体的に、恐怖というショックで
行動が停止され、

感情が支配される状態を指すのであろう。

もっとも、戦場では恐怖に支配される可能性が
多々ある。

その恐怖は狂気にもなり得るし、
内的葛藤にもなり得る。

アドレナリンによる狂気が
戦場での動機にもなり得るが、

全体的に戦場というものが
生物的クライシスと

神経伝達物質のバーストという
両側面を抱えているというのは
間違いないであろう。


単純に言って、
生物的クライシスとは
人間類だけが起こし得るものである。

組織的に同種類で傷害のやりとりが
行われるのは、

人間だけである。

それが政治的、
あるいは生物組織的に

高次機能で引き起こされるものであるから、

なおさら愚かであると言ってよい。

損害の与えあいは、
何も起こさないのであるから

クライシスと呼んで構わないだろう。

神経伝達物質のバーストは、
アドレナリンなどで感情が支配される場合を指す。

文学的に表現するなら、
狂気でその場が支配される状態である。

多くの場合、場とは戦場を指す。

戦場とは、それが起こり得る場所すべてを指す。

戦場では、狂気が場を支配するケースが多い。

冷静であれば、それは狂気とは呼ばないし
戦場であるとも言えない。

人間は狂気を起こせば
戦場を作り得るので、

恐怖のあるところ
狂気があると言ってもいいし、

恐怖があれば
戦場を作り得ることも多い。

もっとも、戦場が恐怖を
生産する場合が多いので、

多角的にみても、
戦場が戦争を作り、

あるいは恐怖が戦場を作る。

全体的に見て戦争が恐怖で
支配される場合が多いのだ。

恐怖はその“場”を支配してしまう
ことが多い。

それが量子力学的に見てなのか、
感情論だけで見てなのか

それは分析しないと
はっきりしないことだが、

多くの場合、
なんらかの引き金があって
恐怖が引き起こされる場合が多い。

その引き金は恐怖でもあるし、
狂気でもあり得る。

あるいは、何人かの義憤でもあり得る。
義憤は狂気と恐怖に基づくものなので、

全体的に恐怖は連鎖するとも言える。

人間は恐怖を起こそうとして
恐怖を引き起こしているわけではない。

必ず引き金があって恐怖が起こっている
わけなのだが、

ホメオスタシス的に言って、
誰かの恐怖が全体の恐怖を
引き起こしている場合が多い。

その場合は、
民族的つながりが多い場合は
波及しやすいとも言えるし、

民族的つながりが
集団心理で統率されている場合、

制御された統率になる場合が多い。

制御された統率は、
ある面では洗脳に用いられるし、

ある面では集団の維持に役に立つ。

どっちにしろ、
集団の維持に恐怖が関わっているのは
間違いない。

なにしろ、秩序は恐怖を引き金に起こされることが
多い。

集団の維持の動機が、
秩序である場合も多いため、

恐怖が秩序の維持、
ひいては集団の維持に

一役買っていることも間違いない。

もっとも、恐怖という感情は
集団の破壊にも、

秩序の破壊にもなり得る。

詳しく言えば、
恐怖は秩序を作るが

必ずしも秩序は恐怖を
作らないということである。

しかしながら恐怖は秩序に
つながる場合が多いため、

大衆の正義とは
恐怖につながる場合が多い上、
恐怖から生み出される場合が多い。

したがって、恐怖から生まれ
恐怖に終わるのだ。

よって秩序は恐怖を表しているが、
恐怖は秩序になり得ない。

秩序は恐怖の伝播を
表しているのだ。


恐怖は秩序を生むが、
秩序は恐怖になり得ない。

ルールとは、
守るべき規則であって

ルールが秩序を守ってくれる
わけではないのだ。

ひいては、
恐怖がルールを守ることになる。

よって放っておくと、
人間はルールを恐怖にし得る。

強いて言えば、
恐怖がルールに、
秩序は恐怖になり得るのだ。

総じて、
一様に恐怖が秩序を作っていると
言わざるを得ない。

戦場の秩序とは、
一様に恐怖を指しているのである。

よって
戦場を支配しているのは
恐怖であり、

秩序とは恐怖とそれに基づく
一連の流れである。

恐怖が恐怖である以上、
戦場に秩序はないのだ。


戦場の秩序とは、
殺害と殺戮が
順番だって行われることを指す。

戦場の倫理とは、
戦争が戦争であることである。

戦場が戦場であるのが
秩序であって、

ルールのある冷静な殺し合いは
戦場になり得ない。

もっとも、それは狂気が秩序を支配していることが
前提である。

もっとも、秩序は恐怖でしかないから、

あえて言えば民主的定義の
倫理が、

思考の軸になることは言うまでもない。

強いて言えば、
秩序は狂気でしかないのだ。


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民主主義は、
倫理が秩序だった形とも言える。

あるいは
恐怖の介在しない倫理とも言える。

どっちにも言えるのは、
統率の維持という恐怖に

倫理も民主主義も支配されている
ということである。

制度が恐怖であってはならない。

だが発狂への恐怖が
社会制度を作ってきた。

人間が人間らしく倫理を維持するためには、
秩序ではなく制度が必要だろう。

もっとも、制度は社会的主張にはなり得ないのだ。
結論からして、民主主義を盾にすることはできない。


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本稿の根本は、

秩序、ひいては倫理そのものが
恐怖という感情が元で引き起こされる
ことを指す。

つまり、ルールは恐怖でしかなく、
恐怖そのものがルールであるとも言えるのだ。

恐怖の束縛という形が、ルールであるとも言える。

人間を導くのは、倫理しかないのだ。


倫理すら、一面の論理にしかなり得ない。
恐怖が引き起こされれば、
倫理も狂気になり得るからだ。


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人間の恐怖は、
どこまでも混乱を引き起こす。

例えそれが、
一種の社会的動きであったとしても、だ。

倫理の混乱は、
生物的クライシスを引き起こす。

多くの場合、
差別・殺戮という形で
社会的混乱を生むのだ。

恐怖は混乱状態において
すべてを支配する。

恐怖から逃れるには、
倫理と冷静さしかない。

個人では冷静さで、

それが集団になると倫理なのだ。

民主主義という概念は、
現代において倫理すべてを
包摂しているとも言ってよい。

もっとも、現代人は民主主義しか
知らないので、

それ以前の社会的抑圧や
集団的狂気については
何も知らないのだ。

倫理は、おそらく豊かな土壌から
生まれる。

狂気や秩序はなにも生まない。

自由とは、
冷静さからくる倫理を指している。

あるいは、冷静さと倫理が自由を指しているとも言える。

恐怖からの解放は、
自由でしかない。

だが、自由とは
恐怖の上に成り立たないのだ。

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ここから考えると、
倫理が自由を生み出しているともいえる。

ただ重要なのは、
倫理が自由ではないということである。

社会的混乱は、何も生まない。
だが倫理の支配の先に、
どういった自由〈精神的な倫理〉があるのだろうか。

アバター
2013/06/29 11:04
すべてからの解放が
あえていうと自由なのかもしれませんが、

過去からの解放なしでは
まず自由は成り立たないかもしれませんねb

思うに、未来を思うことが自由なのであって
過去は束縛の形でしかないのかもしれません。

(コメントありがとうございましたb
アバター
2013/06/29 10:58
 自由ってつきつめるのは大変ですよね。。。




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