Nicotto Town


ふぉーすがともにあらんことを、あなたにも。


倫理と自由

狂気は、倫理をつくり得ないし

倫理は、狂気をつくり得ない。

恐怖は、倫理にもならないし
狂気は、恐怖の捻じ曲がった形であって
秩序にもなり得ない。

あり得るのは倫理の積み重ねが
自由につながることであって、

(しかもそれは文化的開化であって、

決して精神的自由ではない)

倫理自体は秩序でも
狂気〈社会的ルール〉でもないのだ。

恐怖は、一様に
狂気と秩序をつくり得る。

だが、倫理の前には
恐怖はすでに過去のものでしか
ないのだ。

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倫理というのは、
一面の恐怖でしかない。

解放への恐怖と、
束縛の恐怖である。

結局は、過去の恐怖が
倫理をつくる動機になっただけであって、

根本的な自由を追い求める場合、
まず、恐怖からも、倫理からも
開放されなければならないのだ。


精神的な自由は、
解放を指す。
だが、何かからの解放は
決して自由を指していない。

脱洗脳も洗脳状態
というのと一緒である。

(苫米地英人氏の著書より)

自由自体は、自由しか指していない。

倫理は自由をつくらず、
解放への恐怖しか生まない。

秩序は希望を生まず、
束縛への恐怖しか与えない。

自由は自由だけを生み、

倫理は永遠の束縛しか
生まないのだ。


解放という自由は、
俗に思考の解放を指す。

秩序の多くの場合は
精神的制御であるから、

解放というものは
精神的解放をもって
表される。

つまり、
身体の自由は自由を表さないが、

精神の自由は身体の自由を
表しているのである。

よって、自由は
倫理からの自由と言ってもいい。

もっとも、倫理が恐怖を理由に
存在していることが前提である。

未来を思うのなら、
まずは身体を自由にせねばなるまい。

あるいは精神の自由は
未来そのものを指しているとも
いってよい。


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束縛からの自由は、
解放を指していない。

自由とは、
自由のみによって定義
されるものである。

よって解放は自由ではない。

だが、自由には身体的解放が
必須である。


解放自体は、

束縛から自由への移行を
表している。

だが解放は、

自由のあらたな束縛としての
形でしかないのだ。

自由とは、
未来そのもののことかもしれない。

あるいは、
帰納的に未来のことでしかないのだ。

今時は刻一刻と過ぎる。

もっとも、現在も未来も過去でしかないのだから
根本的に未来というのは自由でしか
表されない。

もっとも、自由は未来でしかないのだ。

過去に束縛されていると、
未来は自由であるという保証もないのだが。





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